パラアスリートにどう話しかけていいかすら分からなかった2021年の東京。その後、3年間、パラアスリートを取材し続けた森田京之介キャスターは、どんな想いでパリに向かうのか?...森田本人が想いを綴った。
6つのストーリー
①ジャパンパラ陸上@京都(2022年5月)
初めて競技場で見たパラ陸上。最も印象に残っているのが、100mで追い風参考ながら自己ベストを上回るタイムを記録した佐藤圭太選手。
スタジオでの穏やかな表情からは想像できない迫力ある走り、そして何より、走り終えた後ブレード*を肩にかけて自信ありげにインタビュー場所に登場したときの姿は眩しかった。
*スポーツ用の義足でバネのような板になっている
手術で右脚を切断した直後は義足を隠したいと思っていた佐藤選手だが、パラ陸上で活躍するアスリートが堂々と義足で走る姿に背中を押され、高校から陸上を始めた。このときの佐藤選手は誰よりも堂々としていた。
ジャパンパラでは、走幅跳の芦田創選手の競技後のインタビューも記憶に残っている。
「試合展開」という言葉が何度も出てきた。パラスポーツとしてではなく、走幅跳という競技の奥深さを芦田選手には後日たくさん聞かせてもらった。走幅跳は「メンタルゲーム」だという。
②U25車いすバスケットボール日本選手権@豊田(2023年1月)
東京2020パラリンピックで日本が銀メダルを獲って話題になった車いすバスケットボール。その代表メンバーも多く出場する大会を取材したが、その音と激しさに圧倒された。
車いす同士が平気でぶつかり合い、何度も転倒する。自分で立ち上がる。上半身だけで放つ3ポイントシュートが何度もリングに吸い込まれていく。障がい者スポーツということを忘れて試合を楽しんでいたら、健常者も一緒に試合に出ていることに気がついた。
先述の通り、車いすバスケットボールはコート上の5人の中で障がいの程度のバランスを取る。当人に話を聞くと、チームの中で自分だけが健常者だという意識はないそうだ。「子どもも一緒のコートで、リングを狙ってバスケットをする。中には60歳を超えた人も一緒のコートでプレーする。年齢も性別も障がいも関係なくできるスポーツだ」と語っていた。
車いすバスケットボールにおける車いすは、野球のバットと同じ、スポーツの一道具にすぎない。しかし、その道具を使いこなす世界トップレベルの技がそこにはあった。
③高橋峻也やり投げ合宿@沖縄(2023年2月)
走幅跳の芦田選手は「助走が極めて大事」と話していたが、やり投げも同様だ。高橋峻也選手いわく「助走が8割、投げが2割」だという。
右腕に障がいがある高橋選手は、助走時に左右のバランスを取る必要がある。助走でスピードに乗り、タイミングよくリリースすると、やりは遠くに飛んでいく。高すぎても低すぎてもいけない繊細な競技だ。
元球児という経歴を聞くと、ボールを投げるのと同じ要領でできそうだと考えがちだが、全く異なるそうだ。野球はリリースの瞬間が視界に入るが、やりは見えないところでリリースしなければならない。
大学から始めたやり投げで、社会人2年目の22年には日本記録保持者となった。
キャッチボールをしながら高橋選手に話を聞いてみた。
驚異的な成長を支えたのは、「健常者の10倍努力しろ」という父の言葉。「障がいがあるのに野球なんてやりたくない」と思っていた高橋少年の背中を押した。
甲子園までたどり着くほどの努力を重ねた。強くあり続けるように支えてくれた父親に、パリで闘う姿を見せる。