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「日本人の頭と腕で自動車をつくる」トヨタ本社工場 挑戦の歴史

2024.10.24

トヨタの各工場の歴史と、目指していく進化を紹介する連載シリーズ「トヨタ工場の継承と進化」。今回は、本社工場の操業開始からの軌跡をたどる。

買ってもらえる自動車を

自動車はつくるだけでなく、お客様に買っていただける価格で売らなくてはならない。それでこそ人々に求められる産業として成立する。喜一郎はそう語り、製造原価の低減にこだわり抜いた。

それを実現するために提唱していたのが、現在のトヨタ生産方式に通じる「ジャスト・イン・タイム」だ。

この考えは挙母工場の操業が始まる前からあり、以下のように語っていたという。

喜一郎

私は之を「過不足なき様」換言すれば所定の製産に対して余分の労力と時間の過剰を出さない様にする事を第一に考えて居ります。無駄と過剰のない事。部分品が移動し循環してゆくに就いて「待たせたり」しない事。「ジャスト、インタイム」に各部分品が整えられる事が大切だと思います。これが能率向上の第一義と思います。

必要なものを、必要なときに、必要なだけつくったり運んだりする。それによって原価を抑え、当時は原材料が乏しく、今以上に貴重だった部品もムダにしない。

挙母工場の設計は、その思想を現実にするものだった。以下の全体図をご覧いただきたい。

オリジナルの工場配置図。写真提供:トヨタ自動車

図の上から鍛造・鋳造による金属加工が始まり、下にいくにつれて部品組付、塗装、車体組立などの工程が進んでいく。

つまり、調達から組立に至るまで、全工程が停滞なく流れるよう、物と情報の伝達でムダが発生しない配置になっている。

この「ジャスト・イン・タイム」により、月産2,000台の国産車の大量生産が可能になった。

夢を現実にする挑戦

実は自動車以外にも、喜一郎には叶えたい夢があった。

写真提供:トヨタ自動車

工場の完成とともに始まったのは、航空機の研究。なんと、喜一郎は飛行機事業への進出も目指していたのだ。

挙母町には大きな飛行場があり、研究を行う土地として最適だった。回転するプロペラで飛ぶ航空機、今で言うヘリコプターのようなものをつくろうとしていたという。

その情熱はすさまじく、航空機研究室という専門組織を設置し、日本海軍が払い下げた航空機を研究のために買い取るほどだった。

自動車に航空機、前人未踏の挑戦を支えた挙母工場。その歴史とともに、ある役割が現在の本社工場に受け継がれているようだ。

江里 工場長

1938年の操業開始以来、本社工場は新技術に挑む先駆者という役割を担っています。我々はそれを「フェーズイン」と名付け、今も変わらない使命とし続けています。

「フェーズイン」とは、「新領域への挑戦」を指す言葉で、「夢を現実にする」とも言い換えられます。

自動車や航空機という、未知の領域への挑戦。そこから始まった80年以上の歴史をもつ本社工場だからこそ、トヨタの未来につながる新技術を開拓する。

現場でも「自分たちに任せてくれ」という意識が醸成されており、とにかく挑戦への意欲が高いです。

江里工場長が語るように、現在の本社工場は実験・試作段階にある新技術・新工法にチャレンジし、他工場や世界各国にノウハウを展開する機能を果たしている。

80年以上前に始まった挑戦の歴史は、今もなお本社工場で続いているのだ。

戦争を経ても、絶えない想い

地上に国産車を走らせ、空に航空機を飛ばす。夢の実現に向け、操業を始めた矢先、日本は戦争へと突入していった。

1945年の終戦までの間、トヨタは軍需工場に指定され、自由な企業活動を制限されていた。

軍用トラックを生産していた挙母工場は、空襲により約4分の1が倒壊。終戦後に自主退社する者も多く、9,500人ほどいた従業員が約3,700人にまで減少。しばらくは戦前のような自動車生産には戻れなかった。

そんな焼け野原のなかでも喜一郎は、自由に自動車をつくれるようになったときに備え、小型車用の新エンジン開発に取り組むなど、挑戦への手を止めなかった。

しかし、その後トヨタが経営危機に陥り、1950年の労働争議で喜一郎は社長職を辞任。あとに続く朝鮮特需で業績が回復した際、当時の経営陣から復帰を要望されたが、1952327日、57歳でこの世を去った。

その3年後の1955年、トヨタ、そして日本初の本格的な国産乗用車「トヨペット・クラウン(初代クラウン)」が発売。純国産車として日本中で親しまれ、個人利用から公用車、タクシーまで幅広く使われた。

「日本人の頭と腕で自動車をつくる」という喜一郎の夢が、ようやく現実になろうとしていた。

歴史と覚悟を、魂に刻む

挙母工場で生まれた初代クラウンはその後、新たに建設された元町工場に生産を移管。それからもトヨタはさまざまなクルマをつくり続け、今は海外27の国と地域に生産拠点を置いている。

喜一郎が日本に自動車産業を興すために生まれた挙母工場。1959年に名称を本社工場に変更したのちも、初代プリウスのハイブリッドユニットの組付や、MIRAIに搭載する燃料電池スタックの製造など、挑戦の最前線であり続けている。

江里 工場長は、喜一郎の覚悟を後世に伝えていかなければならないと心に刻んでいる。

江里 工場長

豊田喜一郎さんの、日本で自動車産業を発展させるという想像もつかない覚悟。それを後世に伝承していく責務を、工場長として重く感じています。

その覚悟を絶やさないためにも、我々はまだまだ挑戦し続けなくてはならない。その誓いを「本工魂」という言葉に込め、工場のいたるところに掲げています。

未来をつくる若手の技能を育てるのも重要ですが、創業からの歴史を刻んだ「本工魂」も伝承していかなくてはならない。その両方の実践が、本社工場の「継承と進化」につながると信じています。

喜一郎の覚悟が今も息づく本社工場。

未来に向けて、今後どのような進化を目指していくのか。本記事の後編にあたる「進化編」で詳しく紹介する。ぜひ併せてご覧いただきたい。

トヨタ 本社工場

所在地:〒471-8571 愛知県豊田市トヨタ町1番地

生産開始:1938113

敷地面積:59.9万㎡

従業員数:1,940名(20243月時点)

主な生産品目:エンジンやトランスミッションなどの部品、MIRAIの燃料電池スタック、プリウスのハイブリッドユニット、ランドクルーザーのフレームなど

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