トヨタの各工場の歴史と、目指していく進化を紹介する連載シリーズ「トヨタ工場の継承と進化」。今回は、本社工場の操業開始からの軌跡をたどる。
日本国内に、“トヨタ自動車”の工場がいくつあるかご存じだろうか?
答えは11カ所。しかし、このほかにも、トヨタ・レクサスのクルマづくりを担う関係会社の工場があり、拠点は愛知県だけでなく、北海道から九州まで日本各地に広がっている。
また、そのすべてで完成車を組み立ているわけではなく、エンジンやトランスミッションなどの自動車部品を専門につくっている工場もある。
すべて同じトヨタの工場と思えるかもしれないが、それぞれに知られざる歴史や驚きのエピソードがある。また、クルマの未来を変えるべく、各工場はそれぞれの進化を遂げようとしている。
そんな工場ごとの個性を掘り下げる新連載、「トヨタ工場の継承と進化」。各工場の現在に至るまでの歴史、これから目指していく未来を紹介していく。
最初に紹介するのは、トヨタで最も長い歴史をもつ本社工場。今回は歴史をたどる「継承編」として、トヨタ創業のエピソードも含めて振り返る。
本社工場は文字通り、トヨタ自動車の本社(愛知県豊田市トヨタ町1番地)にあり、生産品目は多岐にわたる(エンジンやトランスミッションなどの部品、MIRAIの燃料電池スタック、プリウスのハイブリッドユニット、ランドクルーザーのフレームなど)。
人事や経理などが入る事務本館や、開発・設計部署が多く集まる技術本館もある地に建つ工場は、どのような歴史を歩んできたのか?
トヨタの始まりの工場
1938年11月3日。トヨタ自動車創立の日*に、国産車の一貫大量生産工場、挙母工場(現・本社工場)が完成した。
*トヨタ自動車の前身であるトヨタ自動車工業の設立は1937年8月28日だが、創立記念日は挙母工場の完成に合わせて設定された
当時は、自動車といえば高級品。街中で走るのを見かけても、ほとんどがアメリカ製だった。いくつかの日本企業が国産車の製造に取り組んでいたものの、大量生産を伴う事業として成立していなかった。
無謀とも言える状況での、自動車産業への挑戦。その根底にあったのは、トヨタ創業者・豊田喜一郎の「日本人の頭と腕で自動車をつくる」という覚悟だった。
現在の海外27の国と地域に生産拠点を展開するトヨタ。最初の量産工場は、いかにして生まれたのか。
日本にも自動車の時代が来る
なぜ、喜一郎は日本の自動車産業の発展を志し、挙母工場を設立したのか。そのルーツを知るためには、時計の針を1921年まで戻す必要がある。
当時、父・豊田佐吉が設立した豊田紡織に入社した喜一郎は、視察で初めてアメリカを訪れた。そこで見たのは、自動車が人々の移動を支え、道路を埋め尽くしている光景だった。
いつか日本にも自動車の時代が来る、日本が世界の一流国になるには自動車産業が必要になる。その確信とともに帰国したのちの1923年9月1日、関東大震災が発生。
復旧にあたっては、壊滅的な被害を受けた鉄道に代わり、アメリカ製のトラックを改造したバスが輸送手段として活躍。自身も被災した喜一郎は、自動車の実用性を目の当たりにした。
1933年には豊田自動織機製作所(佐吉が創業。現在の豊田自動織機)内に自動車部を発足。本業である織機製作の傍ら、志を同じくするメンバーと、輸入した米国車を分解して研究。
バラックの試作工場(現在の愛知製鋼刈谷工場の敷地内にある旧試作工場東棟)を構え、手探りで国産車をつくった。本社工場の起源は、職人たちがクルマづくりで手を汚したこの場所にある。
そうして知見を蓄えたのち、喜一郎は1936年に新たな組立工場(現在のトヨタ車体の前身の一つ)を建設。さらに2年後の1938年、本格的な量産工場である挙母工場を建てた。
「破れ衣」に明かりを灯す
工場の建設地として選ばれたのは、愛知県の西加茂郡挙母町(当時)。現在もトヨタが本社を置く豊田市だ。
もともと養蚕・製糸業で栄えていた挙母町だったが、1930年代に起きた世界恐慌による影響を受け、主要産業が衰退。不況に陥り、「破れ衣(挙母)」と呼ばれていた。
その状況を憂いていた当時の中村寿一 挙母町長に、喜一郎が用地買収を申し入れた。
論地ヶ原と呼ばれる広い原野があり、水力発電に適した川が近くに流れている。三河鉄道(現・名古屋鉄道三河線)が走っており資材の運搬が可能になるなど、挙母町には用地としての利点が多かったのだ。
中村町長は「挙母町を自動車で希望を持てる町にしたい」と考え、それを受け入れた。
工場建設に際して喜一郎は、このように語っている。
喜一郎
自動車工業を始めることは、非常に難しい問題です。私はそれをよく承知のうえで着手することにしました。
私の計画には、もちろん少しのすきもないつもりです。ご当地につくらせていただくのは、
本格的な大量生産工場で、それだけに危険もあるかもしれません。
しかし、万一豊田がこの事業に失敗しても、つくった工場は、他の人が放ってはおきません。第二、第三の事業家が出てこの設備を利用します。ですからこの工場の建設は、挙母の発展にとってプラスになることはあっても、マイナスにはならないと思います。
そうして、1937年にトヨタ自動車工業が設立。翌年の1938年11月3日に挙母工場が操業を開始、同日が会社の創立記念日となった。
町の再生を願う中村町長による協力で生まれた量産工場。建てたからには「おらが町の工場なんだからがんばれ」と言ってもらえるよう、従業員だけでなく町の人たちにも幸せになってもらわなくてはならない。
喜一郎はそう考え、雇用を生み出すだけでなく、地域への貢献も忘れなかったという。
そんな地域共生の精神は、現在も息づいている。そう語るのは、本社工場の現工場長である江里義憲だ。
江里工場長
現在の本社工場の周辺には、多くの社宅やトヨタ記念病院(愛知県豊田市)などが建っています。創業以来、地域との共生を忘れない精神があったからこそ、町とともに工場が発展できた。
当時の挙母市長である中村寿一さんと豊田喜一郎さんの出会いがなければ、この地に工場は建てられなかった。今が100年に一度の大変革期にあっても、地域共生という原点は変わらず受け継いでいかなくてはなりません。
現在のトヨタと豊田市の基盤をつくった2人は、その功績がたたえられ、今も毎年顕彰会が行われている。
晴れて操業した挙母工場だったが、ただ自動車をつくるだけではない、別の挑戦も始まった。