なぜトヨタは24時間耐久レースに挑み続けるのか? (前編)

2022.05.27

6月3~5日に「スーパー耐久(S耐)シリーズ2022 第2戦 富士24時間レース」が開催される。トヨタイムズでは「24時間レース中継」を実施するが、その前に是非見ていただきたい特別番組を制作した。番組名は「なぜトヨタはレースの場で開発するのか? なぜ耐久レースなのか? 〜富士24時間を前に脇阪寿一が歴史を遡って教えてくれた〜」。

番組では、自身もその取り組みに参加していたレーシングドライバーの脇阪寿一さんを先生役に迎え、トヨタが耐久レースへの参戦を続けてきた歴史を解説しながら、その意義に迫っていく。もうひとりの先生は、過去の24時間レース中継に携わったモータースポーツMCの今井優杏さん。2人から教えてもらう生徒は、モータースポーツファン歴の浅いトヨタイムズ記者の森田京之介。

20年の歴史を遡る“トヨタのもっといいクルマづくりの歴史”を約1時間半でお届けしているので、富士24時間レース、さらにその翌週のル・マン24時間レースを前にぜひ多くの方にご覧いただきたい。

なお、「1時間半の視聴はキツい」とおっしゃる方に向け、ここでは番組内容をテキストでも読みやすいよう記事化している。読むだけでも、トヨタが耐久レースにかける想いや歴史を網羅することができるようになっている。前編は耐久レースの過酷さや参戦する意味について。後編では、耐久レースへの挑戦の歩みをあらためて振り返っていく。

24時間耐久レースで走る距離は?

耐久レースについて、モータースポーツ全体の中での位置づけを見ると、「ル・マン24時間レース」が世界3大レースの一つに数えられる。他の3大レースであるF1の「モナコグランプリ」が市街地コースを約260km、「インディ500」が約800kmを走るのに対して、ル・マン24時間の走行距離は5,000km以上に及ぶ。

トヨタは2018年からル・マンを4連覇中。昨年優勝した小林可夢偉選手らの7号車は、1周13.626kmのコースを371周、計5,246km走破した。東京から豊田市を8回往復、直線だと東京からシンガポールまでの距離を、全開で24時間走り続けることになる

世界3大耐久レースは、フランスの「ル・マン24時間」、アメリカの「デイトナ24時間」、ベルギーの「スバ・フランコルシャン24時間」。

世界3大には数えられないが、脇阪さんも出場した「ニュル24時間」も特別な大会として知られ、トヨタが耐久レースを重視するきっかけとなっていく。

「技術開発の場」でもある耐久レース

2023年に100回目を迎えるル・マン24時間は、日本では関東大震災が起こった1923年(大正12年)年に始まった。これは、トヨタ自動車の設立(1937)の14年前にあたる。

当時からヨーロッパでは自動車レースが盛んだったが、走っていたのは“レースのためのクルマ”だった。その一方で、ル・マンは「日常のクルマとかけ離れていたレースカーではなく、市販車による耐久レースを開催しよう」という想いから始まった。

1周13kmのコースには、サーキットだけではなく、普段は一般車両が走っている公道も含まれる。1世紀前はヘッドライトも未発達で、夜間も走ることでライト関係のパーツをテストする意味もあったという。

すなわち、耐久レースとは「自動車の技術開発の場」そのものであり、モータースポーツの中でも、特にその意味合いが強い。豊田章男社長が言う「道がクルマをつくる」「モータースポーツを起点としたもっといいクルマづくり」という考え方に通じるものだ。

トヨタもル・マンに参戦して、ハイブリッドやエンジンの燃焼効率に磨きをかけ、技術の進化を重ねてきた。タンクに入った限られた燃料で、いかに速く、いかに長く走れるかは、順位を左右する。昨年から耐久レースに出ている水素エンジンカローラも、1回の給水素でどれだけ長く走れるか、給水素の時間をどれだけ短縮できるかという技術を向上させ続けてきた。

ニュルへの挑戦(1)コーナー数170の難コース

ニュルブルクリンク(ニュル)をなしに、今のトヨタを語ることはできない。脇阪さんやモリゾウ(豊田社長)も出場した「ニュルブルクリンク24時間」でトヨタがやってきたことを理解すれば、現在のトヨタに至る歴史が分かると言っても過言ではない。

ドイツ・フランクフルト空港から西へクルマで約2時間、森の中に古城が佇む風情豊かな「ニュルブルク」の街。そこにあるリンク(環状路=サーキット)が、「ニュルブルクリンク」だ。

ニュルのコースはとにかく長い。F1やWECも開催されたグランプリコース(1周5.148km)と、山岳地帯を走る北コース(1周20.832km)。その2つを合わせた約25kmのコースを使って24時間レースは争われ、レーシングカーでも1周に10分近く要する。

アップダウンが激しく、高低差は約300m。2022年時点で日本一高いビルの、あべのハルカス(300m)や横浜ランドマークタワー(296m)に相当する。コーナーの数も170と多く(富士スピードウェイが16)、ドライバーは覚えるだけで大変だ。

北コースはクネクネした狭い峠道が続き、コースアウトした時のランオフエリアも少ない。脇阪さんによると、夜間はさらに過酷で、クルマのライトの光軸(方向)の大切さがわかるという。後続車が迫ってバックミラーを確認していると、暗い前はさらに見にくくなる。

ニュルへの挑戦(2)“緑の地獄”であり、文化の根付く“楽園”

「雨のニュルは、世界のサーキットで一番滑ると言っても過言じゃない」と脇阪さん。山の天気は変わりやすく、ピットで晴れていても山の向こうは大雨ということが日常茶飯事だ。雹(ひょう)が降ってレースを中断したこともある。

“緑の地獄”とも言われるニュルを走ることについて、「2度と行くなよと拒否反応をしながらも、レーシングドライバーとして攻めたい気持ちもあって。ニュルに乗っているときの感触は、ちょっと他のレースとは違いますね」と脇阪さんは語る。

プロドライバーさえも恐怖を感じるニュルだが、モータースポーツ文化が根付く、ファンにとっての“楽園”のような場所でもある。ファンはコースサイドでバーベキューをしたり、レース前の路面に落書きをしたりして楽しんでいる。夜のキャンプの灯りは、ドライバーにとって道筋を照らすありがたい光ともなっているようだ。

先日構想が発表された富士モータースポーツフォレストについて、豊田社長は「富士もニュルのようにしたい」と語っていたことがある。「富士24時間でも、コースサイドの芝生で子どもたちがサッカーをしていたり、机を出して宿題をしていたりしており、日本でもモータースポーツを楽しむ文化は少しずつ浸透しつつある」と脇阪さんは語っていた。

ニュルへの挑戦(3)伝説のドライバー、成瀬弘の信念

成瀬弘(1942-2010)というテストドライバーの名前を聞いたことがあるだろうか? モリゾウこと豊田章男社長の運転の師匠とも言われる、トヨタのマスタードライバーであり、その後のトヨタのクルマづくりにも大きな影響を与えたキーパーソンでもある。

脇阪さんは、成瀬氏を「現場を大切にされる職人でした。不具合を見つけるとそれを直すパーツをつくって導入する。本当にクルマを愛し、危険も知っておられた方。成瀬さんがつくるクルマには魂が宿って、走る喜びを与える。そんなテストドライバーですね」と表現する。

成瀬弘氏(写真右)とモリゾウこと豊田章男社長(写真左)

ニュルブルクリンク24時間に、脇阪さんはGAZOO Racingから2010年に初めて出場。前年にスーパーGTの3度目の年間王者となり、自信を持ってニュルに乗り込んだが、クラッシュしてしまう。

クラッシュしたクルマを降りピットに戻った脇阪さんに、成瀬氏は「あなたのようなドライバーがクラッシュするクルマをつくったこちらが悪い」と謝ったという。その後、モリゾウも「壊れたクルマを修理することで、トヨタのメカニックの腕が上がります」と感謝したそうだ。

「それまでの僕は、自分のスピードを表現するための道具がクルマでした。モリゾウさんと成瀬さんは、道がヒトとクルマを鍛えるという想いを実践されていて、2人のもとにたくさんの仲間が集まる。僕もニュルでクラッシュして、クルマは道具ではなく、共に戦いに挑む家族のような感覚へと変わりました」と脇阪さんは振り返る。

ニュルへの挑戦(4)モリゾウ、運命の出会い

成瀬氏とモリゾウの出会いは、ある意味で運命でもあった。アメリカから戻ったばかりのモリゾウは、成瀬氏から厳しい言葉を掛けられたという。

成瀬

あなたみたいな運転のこともわからない人に、クルマのことをああだこうだと言われなくない。最低でもクルマの運転は身につけてください。

われわれ評価ドライバーをはじめとして、現場は命をかけてクルマをつくっていることを知ってほしい。

月に1度でもいい、もしその気があるなら、僕が運転を教えるよ。

ここから、ドライバー・モリゾウの運転訓練が始まる。1日中フルブレーキを踏んだり、先輩ドライバーの後をひたすらついて走ったり、時には横転した車両から自力で脱出する練習も行った。

訓練を重ねてライセンスを上げていったモリゾウは、いよいよ成瀬氏とニュルに初めて挑戦することになる。モリゾウは当時のことを「皆が200キロ以上で走り抜けていくニュルの道をスープラで走るのは本当に怖かった。1周は約10分です。10分後、生きて戻って来られるのか? と思いながら走っていました」と語っている。

ニュルへの挑戦(5)真のクルマづくりの実践に向けて

命懸けの覚悟で走らなければならないくらい厳しい道だからこそ、ニュルは「車両開発の聖地」と呼ばれている。日本で何度もテストを繰り返し、不具合を出し切ったはずのクルマでも、ニュルで走ってみると、すぐに不具合が出てくる。そのような場所で車両開発をすべきという想いがあったからこそ、成瀬氏はモリゾウをニュルブルクリンクに連れていったもと言える。

成瀬

ニュルを初めて走った時、「とんでもない所に来てしまった」と同時に「開発の場として使える」と直感しました。

しかし、社内でニュルの重要性が理解されませんでした。

トヨタ車で初めてニュルで評価を行ったモデルは初代MR2だったかな!? 綺麗な路面の日本のサーキットでは10あるうちの1が見えているだけ、ニュルは10すべてが見えてしまう。

だからごまかしはきかない。

ヨーロッパのメーカーは、そのようなクルマづくりを既に実践しており、クルマづくりの文化が日本とは根本的に異なっていた。未来のトヨタを背負うであろうモリゾウと一緒に、本当のクルマづくりができるかもしれないという希望に、成瀬氏は懸けたのではないか。脇阪さんはそう想像している。

トヨタのクルマづくりを変えたいという成瀬氏とモリゾウの想いが重なり、耐久レースへの挑戦の歴史が始まった。

そして彼らは2007年、ニュルブルクリンク24時間に初めて出場する。

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