なぜトヨタは24時間耐久レースに挑み続けるのか? (後編)

2022.05.27

6月3~5日に「スーパー耐久(S耐)シリーズ2022 第2戦 富士24時間レース」が開催される。トヨタイムズでは「24時間レース中継」を実施するが、その前に是非見ていただきたい特別番組を制作した。番組名は「なぜトヨタはレースの場で開発するのか? なぜ耐久レースなのか? 〜富士24時間を前に脇阪寿一が歴史を遡って教えてくれた〜」。

番組では、自身もその取り組みに参加していたレーシングドライバーの脇阪寿一さんを先生役に迎え、トヨタが耐久レースへの参戦を続けてきた歴史を解説しながら、その意義に迫っていく。もうひとりの先生は、過去の24時間レース中継に携わったモータースポーツMCの今井優杏さん。2人から教えてもらう生徒は、モータースポーツファン歴の浅いトヨタイムズ記者の森田京之介。

20年の歴史を遡る“トヨタのもっといいクルマづくりの歴史”を約1時間半でお届けしているので、富士24時間レース、さらにその翌週のル・マン24時間レースを前にぜひ多くの方にご覧いただきたい。

なお、「1時間半の視聴はキツい」とおっしゃる方に向け、ここでは番組内容をテキストでも読みやすいよう記事化している。読むだけでも、トヨタが耐久レースにかける想いや歴史を網羅することができるようになっているのでご心配なく。前編では、耐久レースの過酷さや参戦する意味について語られている。後編は、耐久レースへの挑戦の歩みをあらためて振り返っていく。

【2007年以前】①生産終了したスープラでの運転訓練

モリゾウこと豊田章男副社長(当時)が最初にニュルブルクリンク(ニュル)24時間レースに出場したのは2007年。それまでは、トヨタのマスタードライバーの成瀬弘氏のもと、時間があればハンドルを握り、運転のトレーニングを積んでいた。

訓練で使っていたクルマは80系スープラ。ニュルでも、メーカーがテスト走行できる日に訓練を行っていた。だが、他のメーカーのクルマがカモフラージュを施した開発中の車両であるのに、自分たちのクルマは既に生産を終了していたクルマであった。

当時のトヨタには、ニュルで運転訓練に使えるような、現役のスポーツカーは存在しなかったのだ。一方、他のメーカーは将来出す予定の開発中のスポーツカーを走らせている。世界的なメーカーにもかかわらず、自分たちだけ、もう販売店にも売っていないクルマに乗る以外にないという屈辱。

抜き去っていくクルマたちが、「トヨタには、こんなクルマづくりはできないだろう」と言いながら通り過ぎていくようにモリゾウの耳には聞こえたという。ニュルで走れることに喜びを感じながらも、はるか前方を走る彼らに対する悔しさを抑えきれなかった。

この悔しさが、ニュル24時間への挑戦を続けていく原動力であった。この当時は、現在へと通じるトヨタのクルマづくりのマインドの根幹が形成されていった時代であったとも言える。

【2007~09年】②初参戦は社名も名前も伏せて

初挑戦となった2007年は、ネッツ群馬で購入した中古のアルテッツァ2台を改造して参戦した。チーム名にトヨタの名前を使うことはできず、モリゾウが当時担当していた事業である「GAZOO」を使うことになった。

ニュルへの挑戦は社内にも理解されず、反応は冷ややか。世間の眼差しも「トヨタの御曹司が道楽でレースに出ている」というものだったという。そのため、予算や人員をつけてもらえず、資金はほとんどがポケットマネーだったようだ。豊田章男という名前も伏せるしかなく、愛知万博(2005年)のマスコットキャラクターにちなんで「モリゾウ」というドライバーネームを名乗った。

当時のトヨタが力を入れていたモータースポーツは、F1である。F1は部品一つひとつの精度が非常に高いが、その分コストもかかり、技術レベルが市販車には高すぎるという側面もある。一方で、成瀬氏やモリゾウが目指していたのは、より市販車開発に結びつくようなモータースポーツ活動だった。

【2007~09年】③技術を継承し続ける重要性

モノづくりにおいて、技術や技能の継承は伊勢神宮の「式年遷宮」にたとえられる。20年ごとに社殿を建て直す理由は、建物の老朽化だけではなく、建築技術を次世代に伝えていくという説もある。

スポーツカーは「走る」「曲がる」「止まる」という大切な技術を突き詰めてこそのクルマでもある。ゆえに、それをつくることによって、一般向けのクルマづくりに必要な技術や技能をヒトが身につけることができる。

20代で一つのクルマに携わった若手が、20年後は40代でクルマづくりの中心となって次の世代を育てる。また次の20年後は、60代で棟梁のような立場となって技術や技能が継承されていく。

トヨタが世界に誇る2000GTが世に出たのが1967年であり、80スープラからすでに15年の年月が過ぎ去っていた。この流れが途絶えてしまうことを、成瀬氏やモリゾウは危惧していたのだ。

周囲に理解されない中でも、意志ある情熱と行動で、彼らは粘り強く努力を続けていく。そこに仲間たちも集まり、ついにニュル挑戦へとこぎつけたのだ。

だからこそ、新しいスポーツカー・LFAの企画も進捗することができ、翌年の2008年のニュルからLFAで参戦。2009年の10月には、市販仕様としてLFAが公開された。

【2010~11年】恩師の想いは未来へと引き継がれた

2010年には、いよいよ生産が始まるLFAをニュルで勝たせるため、脇阪さんらプロドライバーも迎える体制へと移行した。だが、ニュル24時間の1カ月後の6月23日、悲劇が起こる。

その日は、豊田社長が初めて議長を務める株主総会の日だった。早朝にメールで知らされたのは、成瀬氏がニュルで事故死したという一報。LFAのテストドライブで出かけた一般道で、対向車と衝突した事故だった。

クルマに厳しい成瀬氏にもかかわらず、発売前のLFAについて「これならどこの道でも、どんなクルマにも勝てる」「長い間やってきた甲斐があったなぁ」「これまでやってきたことをクルマは絶対に裏切らないぞ」と最高の評価をしていたという。しかし、市販車として世界中の街を走るLFAの姿を見ることは叶わなかった。

その時のモリゾウの心情を察するには余りある。成瀬氏の葬儀では、このような弔辞(一部抜粋)を述べた。

豊田章男(成瀬弘氏への弔辞)

成瀬さんとの走り。成瀬さんとの語らい。「これからの世代にクルマの楽しさを伝えたい」という情熱は、私の行動の、私の言動の、これから変わらぬ糧となっています。

成瀬さんの「いいクルマづくりに終わりはない」という言葉。成瀬さんの想いを、成瀬さんがつけてくれた道筋を、残された私たちが、しっかりと引き継ぎ、確かなものにしていきます。もっといいクルマをつくります。

成瀬さん、長い間、本当にありがとうございました。どうぞ安らかにお眠りください。そして、いつまでも私たちを天国から見守っていてくだい。

上記は一部抜粋。

翌年、2011年は東日本大震災など苦難の年だったが、成瀬氏の遺志を受け継ぎ、ニュルへの挑戦は続けられた。事故があった現場の横には、成瀬さんを偲んで2本の桜が植えらえている。1本は日本の桜。もう1本はドイツの桜。今でもチームのメンバーは、ニュルに着いたらまずこの場所を訪れて挨拶をし、成瀬氏の想いを未来へとつないでいる。

【2012~14年】ヒトも進化して良いクルマをつくる

2012年のニュル24時間には、2月に発表されたトヨタ86が参戦。発売以降も、トヨタ86はニュルの過酷な道を繰り返し走り、鍛えられていった。

そこで得られた技術や技能を惜しみなく注ぎ込み、2015年12月に86GRMNという商品へと結実していく。ニュルの道でつくりあげられたクルマを販売することができ、「やっと、ここまでやってこれた!」という想いは、モリゾウのみならず関わった全員の実感だった。

「ヒトも進化して、ようやくこういうクルマをつくれるようになった」と、脇阪さんはこの時期のことを語る。ニュル参戦の目的は、車両開発と言う側面もあるが、それよりも大切なことは「ヒトづくり」だという。次の時代を担う社員メカニックや評価ドライバーなどの人材が、ニュルのプロジェクトを通じて育成されていった。

ニュルの道で鍛えられたクルマを、トヨタが世に送りだす。ようやくそこまで至ったが、まだ道は半ばだった。市販されたとはいえ、生産台数が限定された車両。少しずつ前に進んでいるのは確かだが、また違う悔しさをモリゾウやGAZOO Racingのメンバーは感じていたのである。

だからこそ彼らは、未来への前進を止めなかった。確かな答えが見えなくても、お互いにさまざまな議論を重ねて、悔しいと思う課題を一つひとつ考え抜いていく。これから未来にどう進んでいくか、その道筋はまっすぐ前へと開かれていた。

【2015~17年】外部のプロから刺激を受け学び続ける

2015年に、トヨタのレース活動の組織が一本化され、「GAZOO Racing」から「TOYOTA GAZOO Racing(TGR)」となった。翌年には、ニュルブルクリンク24時間への挑戦が10回目という節目を迎える。

2016年のニュル24時間の後に撮影された写真は、家族的なチームの雰囲気を象徴している。レース直前に体調を崩して決勝に出られなかったメカニックがいたため、そのヘルメットを被ってモリゾウはポーズを取った。1年間をクルマづくりに懸けてきた仲間は、その場にいなくても想いは同じ。そのメカニックは、2022年のスーパー耐久でも活躍している。

この年は、スポーツカーではないC-HRが参戦したのも話題を集めた。トヨタのクルマづくりが大きく変わったことを、SUVがニュルを走ることで世に知らしめた。

もう一つ、プロのレーシングチームTOM’sとの協業も新たな試みであった。これまではトヨタ社員がメカニックを担っていたが、この車両だけはプロのメカニックと共にクルマづくりを行っていた。そこには、新しい視点や技術を学ぶことで、人材育成へとつなげていこうとする挑戦の意味が込められている。

今井さんは「現在のROOKIE Racingとはアプローチが逆方向ですが、やっていることはつながっています」と説明する。現在、ROOKIE Racingにはトヨタ社員が出向し、プロのメカニックの中で仕事をしている。外部のプロから学ぶという意味では同様の考え方だ。

【2018~19年】6月23日、今日も悔し涙を流して

2018年は新しいGRスープラの準備が着々と進んでいた。11月に行われたニュルブルクリンク耐久選手権の第9戦は、発売を間近に控えた実戦テストとなった。

モリゾウを含む成瀬氏の直弟子3人がドライバーとなり、カモフラージュ柄の「A90」という仮の名前で出走している。かつて叶わなかった、「ニュルを走って開発を進める」という夢がついに果たされた瞬間でもあった。

無事に完走した後、モリゾウは「こんなに楽しいクルマはない」と開発陣に伝えたという。

GRスープラは翌年1月にデトロイトで世界初公開された。そして、半年後のニュル24時間に、今度は実名「GRスープラ」としてエントリーする。かつて中古のスープラで走るしかなかった日々を経て、ニュルの厳しいコースで鍛えられた新しいスープラが、いつでも買えるカタログモデルとしてカムバックしたのだ。

そして、最愛の師匠を失った悲しみからちょうど9年。2019年6月23日に24時間を走り切り、モリゾウはレース後にこうコメントした。

モリゾウ(レース後コメント)

まず最初に皆さん、ありがとうございました。今日は、成瀬さんの命日でありました。

私が午前中、10時から乗るということを聞きまして、実は予定では9時でした。それが10時になったという意味を自分なりに考えますと、ちょうど6月23日の現地時間10時くらいに事故が起きて、亡くなった時間だったんですね。

それで私が成瀬さんの事故の時間にハンドルを握ることになるんだということで、非常に緊張をいたしました。このスープラのカムバック、そして、ニュル13年目の挑戦。いろんな想いが、その3回目のスティントで頭に入って、正直運転どころではなかったというのが正直な感想でありました。

ただ、今日、皆さんが話してくれたことを成瀬さんは聞いてます。

成瀬さんが亡くなった時、葬儀に行きました。そこでやりたいと思うやつだけでいい、ついてきてくれということで続いてきたGR活動です。これが多くの方に応援され、もっといいクルマづくり、クルマづくりの人材育成のど真ん中に、この活動が入ってきたというふうに思います。

本当にここまで支えてくれた皆さんに感謝申し上げると共に、私は、この話になると涙ぐむんですね。なぜかとクルマの中で考えてみました。多分、悔しさです。

13年前、トヨタも名乗れず、このニュルで、成瀬さんとほぼ2人でプライベーターよりもプライベーターらしい、本当に手づくりのチームでここに来ました。

その時の誰からも応援されない悔しさ、何をやってもまともに見てくれない悔しさ、何をやっても、ハスに構えて見られてしまう悔しさ。そして生産中止になったスープラで練習をしてる悔しさ。全ての悔しさが、私自身その成瀬さんが亡くなった6月23日に社長に就任した時からの、ずっと私のブレない軸でもあります。

ですから、私がもっといいクルマをつくろうよということだけしか、社長になって言わないのは全てその悔しさであります。

そして今日も、悔し涙を流した。その悔しさは絶対に自分を強くするし、この活動の目的である「良い仲間」をつくるし、そしてもっといいクルマをつくると思います。そんな想いを持って、冒頭「ありがとうございました」と皆さんに申し上げました。

本来はこのレース、(ずっとスープラの開発を担当してきた)矢吹が出るレースだったと思います。それをスタート、フィニッシュ含めた4スティントを担当させていただきましたが、こういう日でなければ、「矢吹お前乗れよ」と言ってたと思います。

私自身も、この日、スープラ、ニュルというもので成瀬さんから、「いやいやお前乗れ、俺と一緒に乗ろう」と言ってくれたんだと思います。

今日の話は間違いなく、成瀬さんは聞いてくれているし、この天気も、成瀬さんだったんだと思います。ドライバーとしては足を引っ張りましたが、他のプロたちがカバーしてくれました。ありがとうございました。

【2020年】ニュルから富士24時間へ

悔しさはトヨタを強くし、もっといいクルマづくりへと結実していったかのように見える。しかし、まだ悔しさは拭いきれていない。なぜなら、86もGRスープラも他社との協業であり、トヨタが自分たちの手でつくったクルマだと胸を張って言い切れない側面があった。

次に目指したのは、トヨタの手で一からつくったスポーツカー。それが2020年に発売されたGRヤリスである。

本来だったら、このクルマもニュルで開発され、24時間レースにも参戦していたかもしれない。

しかし、そこで発生したのが新型コロナウイルスの感染拡大。ニュル24時間に参戦することは困難になった。

一方、モリゾウの運転の場はTGRでなく、自身がチームオーナーとなり発足したROOKIE Racingとなっていた。ROOKIE Racingは日本の耐久レースシリーズ「スーパー耐久」に参戦。2020年からは開発途上のGRヤリスでの参戦が計画されることになる。

しかし、ステイホームの中、モータースポーツのシーズンもなかなか開幕できない。秋になってようやく再開されたため、デビューレースがいきなり富士24時間レースとなった。その日は偶然にもGRヤリスの市販開始の日。つまり、販売開始の同日にレース初挑戦、しかもそれが24時間耐久という不思議な巡り合わせとなった。

参戦実績のない新型車にも関わらずGRヤリスはクラス優勝を果たす。それには脇阪さんも大きな衝撃を受けたという。しかし、それは偶然の勝利ではない。ステイホーム期間中もトヨタの敷地内のダートコースでは、モリゾウがGRヤリスを鍛え、さらなる改良を加え続けていたからに他ならない。

コロナ禍で一旦は途絶えてしまうかに思われた挑戦のストーリーは、「ニュルでやっていたメカニックの活動がS耐でも続くように」という想いにより、絶えることなく未来へとつながっていた。

撮影:三橋仁明 / N-RAK PHOTO AGENCY

【2021年~】未来を照らすクルマづくり

2020年後半、自動車産業は大きな課題に直面する。カーボンニュートラルである。その年末、モリゾウは水素エンジンの試作車に乗ることになる。その時、一緒に試作車に乗っていた小林可夢偉との会話をきっかけに、水素エンジンでのモータースポーツ参戦を決める。

しかし、参戦決定から富士24時間までは4カ月しかなかった。開発は否応なくアジャイルに進められることになる。このように、「モータースポーツを起点とした、もっといいクルマづくり」は、さまざまな逆境に立ち向かいながら、ワクワクさせるような進化を常に続けているのである。

脇阪さんは「誤解をおそれずに言うと、トヨタ自動車がどう動くかによって経済や国がどうなるかを考えないといけない一面がある中、モリゾウさんはクルマづくりの根本に立ち返り、自分たちのクルマづくりで未来を照らすことを再認識し、我々に伝えてくれているのだと思います」と話す。

軸はブレずに、もっといいクルマを現場から

TGRがあるにも関わらず、モリゾウはプライベートチームのROOKIE Racingを興した。そして、自身が走る場もROOKIE Racingに移している。これはなぜなのか?
脇阪さんは番組の最後にその疑問を投げかけられる。

脇阪さん自身も「自分も最初はよくわからなかった」と言いながら、当時聞いた話をもとに「トヨタを取り戻すための闘いを続けているからだ」と答えた。

純粋にいいクルマをつくり、それに乗って楽しんでもらう本来の「クルマ屋」へとトヨタを戻すためにーー。モリゾウはGAZOO Racingを立ち上げ、自らハンドルを握ってトヨタを一歩外から変えようとしてきた。

それがTGRという大きな会社の組織となり、WRCなどの世界戦もワークスとして戦えるチームとなった。TGRでの立場は社長であるのは間違いないが、現場から見える景色の中でトヨタを変え続けたいと思った時、もう一つの居場所が、より現場に近いROOKIE Racingになったということだ。

「ROOKIE Racingでも、モリゾウさんの考えていることは、軸が絶対にブレない。未来を託そうと、応援したくなるんですよね」と今井さんは話す。

脇阪さんも「僕らはモータースポーツに育てられて、今がある。だから恩返ししたい気持ちがあって、自動車産業に対してモータースポーツは何ができるかを考えながら生きていきたい。その現場にモリゾウさんがいるのは何よりも心強い」と語る。

モータースポーツの現場から、もっといいクルマをつくりたい。亡くなった成瀬氏、モリゾウ、そして数多くのドライバー、メカニック、エンジニア、そしてファン、関係者らの想いを紡ぎながら、受け継がれてきた物語。その最新のストーリーを今、ライブで楽しむことができるのが、富士24時間レースなのだ。

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