「君は何のために南米で製造事業をやっているか考えたことはあるか――」。工場を閉じる相談に来た中南米本部長に豊田章男社長(当時)は尋ねた。
TPS息づく大野耐一ゆかりの工場
もう一点、サンベルナルド工場の歴史を語るうえで欠かせない要素がある。トヨタ生産方式(TPS)を体系化し、トヨタ自動車工業(現在のトヨタ自動車)の副社長も務めた大野耐一が度々足を運んだ工場だということだ。
1970年代、ブラジルの自動車市場は急成長を続け、1971年に50万台、1978年には100万台を突破する。
対して、ブラジルトヨタの生産は年間1000台にも満たず、業績は低迷。その再建を託されたのが大野専務(当時)だった。
大野に度々インタビューを行った野口恒氏は著書「トヨタ生産方式を創った男―大野耐一の闘い(1988年)」の中でこんなコメントを紹介している。
「昭和25年(1950年)、労働争議と経営破綻で倒産寸前までいったトヨタを再建しようとしたとき、『従業員5000人で月産5000台』がひとつの目標でした。そのときの経験から、私はブラジルトヨタの再建目標を『従業員400人で月産400台』におき、それが達成できれば何とかなると思いました。ただ、そのためにはどうしてもTPSをやる必要がありました」
しかし、トヨタにとって初めての海外工場。日本からきた指導員と現地の作業者の間には言語の壁があった。
そこで活躍したのが、日本語の話せる日本人移民やその子どもにあたる従業員たちだった。
大野をはじめ、日本から駆け付けたメンバーは、彼らにTPSの思想や手法を教え込み、現場を引っ張っていく体制をつくった。
現地でのTPSの定着は想像をはるかに超えていた。日本の工場で1時間かかっていた鍛造ラインの段取り替え(ラインに流れる製品に合わせて、加工機や治具[補助器具]などを替える作業)は15分でやれるように。日本からブラジルに勉強に来る社員も出てくるほどに成長した。
「当時、ブラジルトヨタの生産方式はおそらく日本よりも進んでいたでしょう。そういう点ではブラジルトヨタはまさしく、多品種少量をつくるモデルケースというか、テストプラントというか、TPSが一番うまくやれたところですね」(著書内、大野談)
ブラジルトヨタに根付いたTPSは、現在、社会貢献活動の一環として、社外へも広げられている。
「今、TPSは、ブラジルのいろんな優良企業や病院などが導入しています。日系人のお祭りでは、TPSを活用して、焼きそばの生産性が倍になったという事例もあります。皆さんが思っている以上にブラジルの地で根付いている。それも大野さんの功績です」(井上本部長)
社員が人生を捧げてきた工場
「大事なことは、『閉める』というより『設備の引っ越し』だということです。生産量も落とすわけではありません。これからの発展のために、工場を集約、再編して、次に進むのが目的です」と井上本部長は強調する。
再編に伴い、サンベルナルド工場の従業員には州内の別工場へ配置換えを提案した。
しかし、州内とはいっても、150kmほど離れている。家庭の事情で引越しが難しく、トヨタを離れなければならない社員がいるのも事実だ。
退職後の生活が安定するよう、会社は転職支援など、一人ひとりとの丁寧なコミュニケーションを心掛けた。
「最初はショックでしたが、会社のサポートをいただいて、みんなも理解し、安心して仕事に臨めました」と話すのは溶接の責任者を務めるマルセロ・ペリン。他工場への設備移管に最後まで力を注いだメンバーの一人だ。
工場では、ちょっとした注意不足が大きな事故につながる危険もある。
自身の役割を「従業員の抱えるさまざまな疑問を解消し、安心して作業に取り組んでもらうサポートすること」ととらえ、意識的な声がけと新しい工程に携わる人材の訓練に努めた。
自身は退職して、新たなビジネスを始めるという。「フィールドを変えて新たな挑戦をするつもりです。もちろん、トヨタの誰かが必要としてくれたときにはいつでもサポートします」と笑顔で語ってくれた。
「工場が閉鎖すると聞いたときはショックでした。18年間も働いているので。妻も幼い2人の娘も最初は驚いていました」
不安を取り除いてくれたのは、異動先の工場で働く仲間の声だった。移管が決まったときには、社内のイントラに「ウェルカム、サンベルの皆さん!」などと温かいメッセージも自発的に書き込まれたという。
「住んでいる人に話を聞くと、『住みやすい』という意見ばかりで、調べていくうちにとても前向きに考えられるようになりました。不安は感じていません。子どもたちの学校もよりよい環境なのではないかと思っています」
新しい工場では現在と異なる業務を担当することが決まった。
「新たな学びの機会を得ることができてとてもわくわくしています。残りの人生をこの会社で働き、定年を迎えられたらと思っています」
閉鎖する工場を特別な想いで見つめるのは現役社員だけではない。工場が立ち上がった1962年に入社し、1995年の退職まで長年にわたって働いてきた原口芳春氏。
「サンベルナルドの銀行にクルマで行くでしょ? すると自然と工場の方に向かっていっちゃう」と自身にとっての存在の大きさを語る。
ブラジルトヨタを創業期の経営が苦しいときから支えてきた原口氏。
「当時は、自分たちの給料は自分たちで稼ぐんだという気持ちで働いてきました。景気が悪いときは、外注していた部品も内製したんです。できるものは全部自分たちで覚えて。そうやって、自分たちの仕事は自分たちで守ってきました」とOBの想いを代弁する。
「今の僕があるのはサンベルナルド工場のおかげだと思っています。だから仕事を辞めてからも、『原口さん手伝ってよ』と言われると『いいよ』と言う。(退職してからも)15年、(手伝いに)通いました」
工場の立ち上がりを支えた人、最後の瞬間まで力を注いだ人、そして、レガシーを受け継いでいく人。それぞれが人生の多くの時間を捧げた工場を特別な想いで見つめている。