「君は何のために南米で製造事業をやっているか考えたことはあるか――」。工場を閉じる相談に来た中南米本部長に豊田章男社長(当時)は尋ねた。
ブラジル サンパウロ州にあるトヨタ初の海外工場・サンベルナルド工場が、11月11日、生産を終了し、60年の歴史に幕を下ろした。
1962年に操業を始め、2001年までに10万台以上のバンデランテ * をラインオフ。最近ではカローラやハイラックスの部品を製造してきた。
*ランドクルーザーのブラジル仕様車。ポルトガル語で「開拓者」の意。
生産は同州の他の3工場に集約し、競争力の向上を図る。
閉所式では、井上雅宏 中南米本部長が「サンベルナルド工場での生産の歴史はクローズするが、これからの飛翔のため。(生産移管に伴って)住まいを移してくれた従業員やその家族とともに、トヨタはもっといいクルマを生産し、中南米に輸出拡大する。ブラジル自動車産業のさらなる発展に寄与していく」と決意を述べた。
トヨタで最も歴史のある海外工場を閉じるという重たい決断。3年前、恐る恐る相談をしに行った井上本部長は豊田章男社長(当時)に「君は何のために南米で製造事業をやっているか考えたことはあるか?」と問われたという。
その投げかけの意味は? そして、同工場はトヨタにとって、どんな存在だったのか? 取材した関係者の証言とともにひも解いていく。
トヨタ初の海外工場
サンベルナルド工場の稼働が始まった1962年は、まだ日本にも、本社と元町の2工場(生産開始は各1938年、1959年。いずれも愛知県豊田市)しかない時代だった。
当時のトヨタの生産台数は23万台。2022年のグループ世界生産が1061万台であることを踏まえると、わずか2%の規模でのスタートだったことになる。
1950年代、トヨタは海外進出の候補地の一つとして中南米を検討していた。中でも、ブラジルは広大な国土と域内最大の人口を有し、将来性豊かな市場と目されていた。
さらに、世界最大の日本人移民のコミュニティがあったことも、理由の一つになったと言われている。
転機となったのは1956年。ブラジル政府は「国産化に基づく自動車振興法」を発令。完成車の輸入が実質禁止となり、欧米のメーカーは現地での事業拡大を検討し始めた。
トヨタも1958年にブラジルトヨタを設立。サンパウロ市内に土地を借り、翌年5月にはトヨタ海外生産第1号となるバンデランテが誕生する。
このクルマは重量比で約60%がブラジル産だったが、政府の国産化要求は年々上昇。これに対応すべく、本格的な車両工場として建設されたのがサンベルナルド工場だった。
エンジンは他社製を現地調達。輸入に頼っていたトランスミッションやデファレンシャルといった駆動部品も国産化を進め、1968年に100%を達成した。
当時、ブラジルでは農牧業を中心に頑丈な車両へのニーズが高く、警察予備隊(現自衛隊)向けに開発され、日本でも高い評価を得ていた同車が導入された。
泥地や土埃、水辺など、どんな過酷な道も走り抜け、故障もしないバンデランテは、「信頼性」「耐久性」といったトヨタのブランドイメージを築いていった。
トヨタ創業の足跡を残す工場
トヨタ創業期のさまざまなエピソードがあるのもサンベルナルド工場の特徴だ。
この度、同工場で使われていたプレス機が、60年ぶりに日本へ“里帰り”する。元々はトヨタ自動車が設立されるよりも前の1934年、愛知県刈谷市を拠点とした「豊田自動織機自動車部」時代に購入されたものだ。
1938年に挙母工場(後の本社工場)が設立されると、このプレス機も移設。創業間もないトヨタのクルマづくりを支えた。
1962年になると、今度はサンベルナルド工場の立ち上げに合わせて地球の反対側へ。今日まで合計で89年間、現役のプレス機として部品を打ち続けてきた。
「あんなに大きなものを戦前の日本の会社がつくった、買ったこと自体が信じられません。ものすごく高価だったと思います。推測ですが、イギリスの会社に豊田自動織機の特許を売って得た(トヨタ自動車の立ち上げ資金となる)お金をかなりつぎ込んだんじゃないかと思います。大金だったと思います」と井上本部長。
この歴史的価値の高いプレス機は、豊田章男会長に相談し、「動態保存」(生産できる状態で保存)することが決まった。
60年前と同じ本社工場の元々あった場所に据えられ、補給部品の生産を続ける。さらに、型保全に関わる作業者の教育などにも活用される予定だ。