第4回「目指せ30馬力オーバー」──オリジナルのポテンシャルを目指して(後編)

2022.07.08

幻のレーシングカーの復元プロジェクトを追う。第4回後編では、本格的に始まったエンジンレストア作業についてリポートする

トヨタ社内で今、復元が進む幻のレーシングカーがある。それは誰がどんな想いで、どんな目的で開発した、どんなマシンだったのか。その歴史と意味、そして復元の現場をリポートする特集企画。

今回は、エンジン担当チームの後編として、加速を始めたエンジンレストア作業について、若手メンバーの奮闘をリポートする。

石川流のノウハウでダメージを修復

新明工業の伝説的メカニック・石川實(みのる)氏の指導の下、トヨタ博物館に保管されていたスズキ号と、リーダーズ号に搭載されていたもの、2基のS型エンジンを分解し、全部品の状態確認を終えた鈴木修平、仲程慈英、石黒萌のエンジン担当チーム。

彼らはレストア作業を進める中で、どうしても解決しなければならないいくつかの大きな問題に直面した。

一つ目がシリンダーブロック、円筒形のシリンダーの内側、ピストンと接するシリンダーライナーの表面の傷。もう一つが、コネクティングロッド※とクランクシャフトをつなぐコンロッドキャップのメタル部分の一部欠損だった。
※クランクシャフトとの連動により、ピストンの往復直線運動を回転運動へ変換する部品


どちらもエンジンにとって重要な部分であり、きっちりと解決しておかなければ、摺動部が焼き付き、エンジンブローの原因にもなり得る。

分解されたS型エンジンのシリンダーブロック。トヨタ史上唯一のサイドバルブ形状が特徴
仲程

コンロッドメタルの深い欠けを見たときは、これはダメかもしれない。レストアは諦めるしかないのかと思いました。
鈴木

でも、石川さんたち新明工業の自動車レストア部門には、ヒストリックカーの修復に関してのノウハウがいくつもあったんです。


エンジンチームの復元における方針は「できる限りオリジナルの部品を使う」こと。当時のエンジンの振動や音までも復元するために、そのように決定したのだ。今回の2部品の修復でも、新明工業で長年蓄積したノウハウが活かされた。

まずシリンダーライナーの表面の傷は、ライナー全体のボーリング、つまり表面を平滑に削ることで対応。最新のエンジンは軽量化のため、限界まで薄肉化されているものが多いが、S型エンジンのシリンダーブロックは、鉄製で強度があること、厚みに余裕があることから可能だった。

表面を削って磨き上げられたシリンダーライナー(円筒部分)。反射するほど輝いている

そしてもう一つの問題、コンロッドキャップのメタルの一部欠損に対しては、一度メタルを肉盛りし再度削って当時の面と同じ形状に修復することで対応した。新明工業をはじめ、関連企業で継承される、昔ながらの匠の技術を目の当たりにした。

切迫する作業スケジュール

技術的な問題は何とか解決する目処がついたS型エンジンのレストア。だが、エンジン担当チームが乗り越えなければならない課題は他にもあった。作業スケジュールの遅延だ。

石黒

当初の予定よりも作業に時間がかかって、当初の計画通りに進まなかったんです。プロジェクトチームがミーティングルームに集まるのは火曜日で、この日以外の仕事は在宅ワークが多かったのですが、別の日に出社して作業したこともありました。同じ部署の人からは「トヨペット・レーサーの復元、がんばれよ」と励まされたりもしました。


遅延するのは無理もない。学生フォーミュラのメカニック経験がある鈴木にとっても、S型エンジンは未知の領域だった。学生フォーミュラで鈴木が整備していたのはDOHC(ダブル・オーバー・ヘッド・カムシャフト)が採用された高出力・高回転の現代のオートバイエンジン。70年前に設計・製造されたサイドバルブのS型エンジンとはまったく違う。

鈴木

レストア開始時に、日々の作業予定まで落とし込み計画を立てましたが、全く見たことがないオイル漏れ止めの構造や材料、部品締結の方法があり、エンジン復元の計画を見直す場面が何度もありました。そのたびに「プロジェクトの日程に遅れられない」と焦っていました。
「火入れ試験」に向け、3人は力を合わせてレストア作業に取り組んだ

社内のテストベンチで行う2021年7月20日の「火入れ試験」が間近に迫っていた。だが、チームはエンジンを動かすために不可欠な部品で一つ、重大な問題を抱えていた。それは、高温・高圧の燃焼ガスにさらされるシリンダーブロックとシリンダーヘッドのすき間からのガス漏れを防ぐヘッドガスケットだ。

仲程

ガスケットは使いまわしができない。組み付けられていたオリジナルのガスケットは使えない。でも、それが無ければエンジンを甦らせることはできません。ガスケットが用意できないので、作業を進められず新明工業さんにエンジンを置いておくしかありませんでした。納期が厳しい。常に追われている感じでしたね。


しかも、オリジナルの素材は安全性と環境汚染の観点から使うことはできず、新たに設計をし直す必要があった。この問題は、ヘッドガスケットを担当する仲程を悩ませた。仲程の自職場での業務は主に部品の加工であり、部品を設計することは初めての経験だったのだ。本連載第3回でもご紹介したように、このプロジェクトではメンバー自身が未経験の領域へも果敢に挑戦をする。

仲程の挑戦の一つはこのヘッドガスケット設計であった。普段よりエンジン設計業務を行う鈴木のアドバイスを受けながら、ヘッドガスケットの仕様を当時の残存する図面から読み解き、ガスケットメーカーと形状や材質の検討を進めた。ギリギリの納期の中「これならつくることができる」とメーカーの合意を得て、仲程が設計した新しいヘッドガスケットは作業スケジュールに間に合う形でエンジンに組付けられたのであった。

エンジン組付は失敗するとエンジン始動の際に壊れてしまうので一層丁寧に行われた

エンジンベンチでも「ひと苦労」

ガスケットの設計に奔走した仲程は前日まで、鈴木とともにエンジンの調整作業に取り組んだ。こうした紆余曲折を経て、3人は予定通りの7月20日、復元されたS型エンジン「スズキ号」の「火入れ試験」にこぎつけた。

火入れ試験の舞台は、開発中のエンジンをテストするエンジン検査場。テスト中のエンジンが並ぶ検査場の一角には、鈴木たちが新明工業で組み上げ運び込んだS型エンジンが、検査場のスタッフの手でエンジンベンチにセットされていた。

ここには、エキゾーストマニホールドに接続して高温の排気ガスを安全に排出するための特別な換気装置や、スターターモーターを回すための電源装置、万が一のエンジン火災に即座に対応できる消火設備など、エンジンの運転テストを行うための安全設備が整っている。ここのスタッフも、忙しい日常業務の中で、このテストに全面協力してくれたのだ。

3人がレストアしたS型エンジンは、運転テストのために他のベンチに据え付けられている現代のエンジンと比べると、驚くほど小さい。その周囲には、オヤジたちをはじめ復元プロジェクトチームのメンバーが集まって、準備作業をする鈴木と、サポートする石黒を見つめていた。70年の時を越えてエンジンが甦り、力強いエンジン音が響き渡るのを今か今かと待っていたのだ。

エンジン検査場の安全責任者から、復元プロジェクトメンバーに対して、安全上の注意が丁寧に行われた後、エンジンに「火を入れる」ときが、ついにやってきた。だが「火入れ試験」は予定通りにはいかなかった。

メンバーを前に、鈴木はS型エンジンのスターターモーターのスイッチをオンにするが、なぜかエンジンはかからない。鈴木はキャブレターを操作して、より多くの燃料をシリンダー内に送り込んだ。それでもエンジンは目覚めない。

鈴木

あの瞬間は、頭の中が真っ白になりました。どの部品も問題は無く、組付作業も正確に行ったからエンジンは問題なくかけられる、と思っていたので。


プロジェクトチームの面々が見守る中、鈴木と石黒はその場でエンジンの再点検を実施した。自分たちで分解、設計、組付を行ってきたため、今では誰よりもS型エンジンを理解している。始動不良の原因はすぐに判明した。1時間後、S型エンジンは力強い音とともに見事に復活。レストアは無事成功、S型エンジンの70年前の燃焼室は現代の空気を吸い始めた。エンジンテストベンチはプロジェクトチームや見守っていた「オヤジたち」の拍手と歓声で満たされた。

鈴木

ここでエンジンをかけないと「終わる」と思って焦りました。けど温かく見守るプロジェクトメンバーを見るとすぐに落ち着いて、「なぜエンジンがかからないのか」と考え始めることができました。結論としてはキャブレターのフロート室に燃料が入り過ぎて動作不良を起こしていました。自身達の手で汲み上げたエンジンだからこそ、迅速に問題を解決して、エンジンをかけることができました。「70年前の先人達もこんなふうにクルマが壊れるたびに直していたのかな」とその時強く感じました。


プロジェクトチームの中でも年齢がいちばん若い鈴木は、この「火入れ試験」が終わると工場の製造現場での3カ月の実習があり、プロジェクトをその期間抜けることが決まっていた。それまでに自分ができることを最大限やらなければ、というプレッシャーを感じていたのだ。一方、石黒は冷静だった。

石黒

最初はかかりませんでしたが、大丈夫だと思っていました。エンジンが復活したときは、スケジュール通りにいってよかった。これで何とかなったなー、とホッとしました。

得がたい貴重な経験

エンジン担当チームの仕事は、これで一つの節目を迎えた。この後、シャシーへの組み付けや、車両としての初走行、シャシーダイナモによる性能確認など、まだまだクリアすべきことは残っているが、この時点で3人はプロジェクトから何を得ることができたのだろうか。

数々の困難を乗り越え、無事に「火入れ試験」を迎えることができた、左から鈴木修平、石黒萌、仲程慈英の3人
鈴木

新人なのに、先輩たちを差し置いてリーダーを務めるというプレッシャーもあって、当初は「絶対に失敗できない」という不安の日々でした。でも、エンジンの火入れまでやり遂げることができたことで、信念と情熱を持って取り組んだら自分でもなんとかできるという自信がつきました。ついてきてくださった2人とリーダーを任せてくれたプロジェクトメンバーに感謝です。
仲程

これまでエンジン関連の仕事をしてきましたが、今回のプロジェクトでブレーキやステアリング、トランスミッションなど、クルマのさまざまな要素について知ることができて、とても勉強になりました。クルマは「人が鍛える」ものだと思っていましたが、今回は自分が「クルマに鍛えられ」ました。部品の調達を通じて、社内や社外に新しい人脈ができたことも、個人的には大きな収穫です。
石黒

これまでの仕事はデジタルの領域に限られていたのですが、今回のプロジェクトで、デジタルからモノづくりまで一気通貫で体験し、デジタル寄りの人間だった私が、無縁だったモノづくりの勉強をすることができました。これは得がたい貴重な経験でした。さまざまな部署や領域の人とつながることができたのも、今後の仕事に活かせると思います。


レストアの神様、石川實氏に受けた指導も、3人にとって、得がたい貴重な経験だったという。

石川氏は、ときに厳しく、ときに優しく、懇切丁寧に3人を指導してくれた
仲程

悪いところははっきり言ってくれる。なかなか叱ってくれる人が少ないなかで、本気で叱ったり指導したりしてくださるいい親父さんです。
石黒

石川さんのようなタイプの「指導」は、今は受けたいと思っても受けられないですから、とても貴重な体験でした。
鈴木

僕にとっては「おじいちゃん兼師匠」という感じです。公私ともに多くの事を教えてくださいました。プロジェクトがすべて終わったら、3人でお礼に行きたいと思います。


(文・渋谷康人)

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