幻のレーシングカーの復元プロジェクトを追う。第2回はプロジェクトチームの方針と発足に至るまでの話を紹介する。
トヨタ社内で今、復元が進む幻のレーシングカーがある。それは誰がどんな想いで、どんな目的で開発した、どんなマシンだったのか。その歴史と意味、そして復元の現場をリポートする特集企画。
第2回は、プロジェクトの推進者である布垣直昭とともに方針を決定し、メンバーを集めてチームを編成したリーダー、開発試作部長である小島敬士に、プロジェクトの具体的な方針とその理由、さらにチーム発足までの話を聞いた。
「モータースポーツを起点としたもっといいクルマづくり」の原点
豊田社長が掲げる「モータースポーツを起点としたもっといいクルマづくり」の原点ともいえる「トヨペット・レーサー」。1950年秋から計画が始まり1951年春に完成。最終的に2台が製作されたこの「幻のレーシングカー」を、当時そのままの「走るクルマ」として現代に甦らせる。このプロジェクトが本格的に始動したのは、豊田社長に承認された2020年5月のことだった。
プロジェクトの推進者、社会貢献推進部長兼トヨタ博物館館長を務める布垣直昭は、メンバーをどのように選んで、具体的にどう進めるか、開発試作部長である小島敬士を訪ねて相談した。
小島が率いる開発試作部は、自動車の製品化に必要なさまざまなテストに使う試作車を、鉄板など素材の状態から製作するのが主な仕事。レーシングカーの復元には、試作のプロたちの技術と経験、協力が絶対に欠かせない。
布垣と小島は20年来の知り合い。だが、会うのは久しぶりだった。
「『トヨペット・レーサーを復元したい。協力してくれないか』。布垣さんにこう言われたときは、その存在すら知りませんでした。『トヨタモータースポーツ前史 トヨペット・レーサー、豪州一周ラリーを中心として』(2018年三樹書房刊)を読んで、『こんなクルマがあったのか。これを自分たちで現代に蘇らせるのか』と驚きました」
布垣から「写真と社内報以外は、マシンに関する資料はほとんどない」と聞いて、小島は「これは、開発試作部のベテランでも経験したことがない、これまでにないモノづくり、クルマづくりになる」と思ったという。
「ゼロからつくるわけですから、これはかなり大変なことになる。でもものすごく面白い。それに『絶対にできる』という自信もありました。なぜなら、ウチ(開発試作部)の現場の技能員たちは、たいがいのものはつくれる。特に、鉄板を曲げたり叩いたりして成形することは得意です。ただ、いちばんの問題はエンジンです。ゼロからつくることは難しい。また、足回りなどボデー以外の部品の製作も、かなり苦労すると思いました」
幸いなことに、S型エンジンはトヨタ博物館が所蔵していたが、改めて分解点検した結果、エンジン内部はレストアを行わなければ動かないことが分かった。そして、サスペンションやフロントアクスルなどの足回りやトランスミッション、ボデー、シートなど、エンジン以外の主要部品はゼロからつくるしかなかった。
「でも、いろいろな部署から人が集まれば、絶対に何とかなる。あまり心配はしていませんでしたね」
トヨタの未来を担う人材育成の機会に
このプロジェクトのミッションはもちろん、トヨペット・レーサーというクルマを復元して当時そのままに走らせること。
しかしもう一つ、トヨタの未来を視野に入れた目的があった。それは、このマシンを製作した人々の想いを受け継ぎ、トヨタのモノづくり、クルマづくりの未来を担う若い人材を育成することである。
「今のトヨタでは、効率を追求した結果、あらゆるプロセスが徹底的に分業化されています。だからどの部門でも、関われるのはクルマのごく一部。つまり『クルマづくりの全プロセスに最初から最後まで関わる』機会は、ほとんどありません。クルマ全体が分かる、クルマ全体を見て、そこから個々の部品や機能をどうするか考えて決めることができる、スケールの大きな“クルマエンジニア”が育ちにくいのです」
生産規模の大きさから、一時代前はモノづくり、クルマづくりの細分化、タコツボ化が起こってしまっていた。それを放置して、ほとんどのエンジニアが「自分が担当したクルマの一部しか分からない」状態になれば、“いいクルマ”を開発することは難しい。部品のことだけを考えてつくられた“いい部品”を集めても、決して“いいクルマ”にはならない。クルマ全体を考えてつくられた“いい部品”があってはじめて、本当に“いいクルマ”を生み出すことができるからだ。だからこそ、豊田社長はカンパニー制を導入して製品軸の組織に変え、クルマのつくり方を変えてきたのだ。
このプロジェクトでは、部品づくりは分業制で行うものの、その組立から走行試験まで、メンバー全員がゼロから最後まで、「クルマづくりのすべて」に関わることができる。“クルマエンジニア”を育てる絶好の機会になるはずだ。
布垣と小島は、この視点から若手を中心にチームを組織することを決めた。
機械に頼り過ぎない「手仕事」中心のモノづくりで
さらに2人は、“クルマエンジニアを育てる”という視点から、このプロジェクトの大原則も定めた。それは、部品の製作や調整という作業を、できるだけ機械に頼らず、できるだけ当時の道具を使って、人の手で行うこと。さらにメンバーは基本的に、自分がこれまで経験していない仕事を担当すること。
「コンピュータで制御する最新の工作機械を使えば、迅速かつ正確に部品がつくれます。でもそれでは、手仕事を中心にモノづくりをしていた当時の人たちの想いや苦労に近づけない。できるだけ当時の道具や方法を使って製作することで、便利なツールがあるために忘れてしまったものを発見し、取り戻して未来に継承できるのでは、と考えました」
入社以来、現場一筋で副社長まで務め、今も社内で“おやじ”として慕われる、現エグゼクティブフェローの河合満は、「機械の力に頼り過ぎたモノづくり」に以前から警鐘を鳴らしてきた。
「機械に頼っている今のクルマづくりは、モノづくりの原理原則とは逆の方向。手仕事によるモノづくりの感覚がないと、トラブルが起きたときに、機械の中で何が起きているのか、どう解決すればいいか分からない。河合さんはその危機感から、副社長時代に若手社員への『源流技能の継承』をスタートさせています。布垣さんと私は、このプロジェクトが部門の垣根を超えて、さまざまな源流技能を若手が体験し、継承する絶好の機会になると考えました」
トヨペット・レーサーをつくった人々は、素材も道具もあるものを最大限活用して、創意工夫で「ゼロからのモノづくり」を行っていた。その当時のモノづくりを再現し、失われた「モノづくりの感覚」を取り戻そうというのだ。
「当時のモノづくりを現代で、しかも若手のメンバーでやってみたらどうなるのか。この挑戦は個人的にもとても興味があります。苦労はするでしょう。でもその体験は未来のモノづくりに必ず役に立つはずです」と小島は語る。
意欲のある若手が、社内の各部門から
こうしてプロジェクトの狙い、目標を定めながら、小島はメンバー集めをスタートさせた。各部門から、やる気のある20~30代の若手社員を公募。さらに管理職にも理解と協力を求め、「プロジェクトを経験させたい」若手社員の推薦も依頼した。
また、今回のプロジェクトでは、設計・実験に携わる開発系のメンバーと、生産技術や製造を担当する生産系のメンバーが混在するチームを編成した。普段は仕事が前後工程に分かれており、同じ立場でプロジェクトを一緒に担当する機会はあまりない。
「開発系、生産系といったバックボーンを問わず、各チームに与えられた仕事をしてもらいます。全員が同じ役割で、一緒に仕事をすることで、お互いに学ぶところがあるはずです」
各部内の選考を経て、モノづくり開発センター、クルマ開発センター、パワトレカンパニーを中心に若手社員15名がメンバーとして選ばれた。
サポート役は「おやじ」と「兄貴」
小島は若手メンバーを選考する一方で、彼らをサポートする万全のバックアップ体制も整えた。まず声を掛けたのが、自らが部長を務める開発試作部のベテランたち。集まった若手のメンバーをぜひ指導してほしい、とそのサポートを依頼したのだ。
「手仕事でモノづくりすることを考えると、ボデー試作課の吉野栄祐工長(「日本のクルマづくりを支える職人たち」第4回で紹介)のような、現場のベテランたちの協力が必要になる。だから最初に声を掛けました」
最終的には板金・溶接のプロである吉野を含め、シャシー設計、試験評価、鋳造のプロ、市販車のクルマづくりを一気通貫で監督するチーフエンジニアまで、5人の「おやじたち」がそろった。
さらに、開発試作部の市川晃主幹や藤原佑樹ら、「兄貴たち」と呼ばれるプロジェクト事務局を務めるサポートメンバーも整った。
加えて社外からも、トヨタ車のレストア業務で知られ、「昔のトヨタ車」の生き字引ともいわれる新明工業株式会社の伝説的な自動車整備士、石川實(みのる)氏のような、頼もしい協力者も加わった。
今が最後のチャンス
「このプロジェクトをもし10年後に行おうとしたら、できなかったでしょう。今だから、社内にも社外にも頼もしいサポーターがいました。最後のチャンスを逃さずに済んだと思います」
プロジェクトチームを発足させた小島は、改めてそう振り返る。そして2020年11月19日、社内の会議スペースに、若手メンバー15人と兄貴たち、おやじたちが初めて集まった。メンバーはほぼ全員が初対面。お互いに会話することもない状態だったという。
メンバーは、「エンジン」や「ボデー&フレーム」など5つの担当チームを編成。こうして、いよいよ復元プロジェクトはスタートした。
第3回以降は、復元の現場とチームメンバーの奮闘をお伝えする。
(文・渋谷 康人)