2月23日"富士山"の日。Woven Cityの地鎮祭で豊田社長は、ある約束をした。
2月23日、トヨタが中心となって進める未来の実証都市、Woven Cityの建設が始まる。
この日の朝、富士山を望む静岡県裾野市のトヨタ自動車東日本株式会社(以下、TMEJ)東富士工場の跡地に隣接する旧車両ヤードでは地鎮祭を行い、ここから始まる未来への祈願をした。
2020年1月、米・ラスベガスで行われたCESで社長 豊田章男がその構想を発表してから約1年、新型コロナウイルスの猛威で人々の生活も経済活動も停滞を余儀なくされるなか、このプロジェクトは予定通りに進行し、滞りなくこの日を迎えることができた。
来賓に静岡県の川勝平太知事や裾野市の髙村謙二市長をはじめとする自治体関係者のほか、TMEJの宮内一公社長や近隣の仕入先代表者らを迎え、神事が執り行われ、終了後の施主代表あいさつを行った豊田は、ある約束をした。
実は、Woven Cityの構想ができて以降、この日を迎えるまでの間にも、豊田はいくつかの約束を結んでいる。
その内容は3分足らずの短いものだったが、そんな場面を思い起こさせるものだった。
53年の歴史に幕を閉じた東富士工場
豊田社長 あいさつ
本日、地鎮祭を迎えるにあたり、これまで多大なるご支援、ご協力を賜りました裾野市、静岡県および地域の皆様、そして工事関係者の皆様に厚く御礼申し上げます。
コロナ禍において、決めたことを決めた通りに進めるということは決して簡単なことではないと思います。関係者の皆様のご尽力に心より感謝申し上げます。
昨年12月9日。地域の皆様にお支えいただきながら、この地で生産を続けてまいりましたトヨタ自動車東日本の東富士工場が53年の歴史に幕を閉じました。
ここで働いてきた人は7,000人。この場所に、毎日、1,400万歩の足跡を残したことになります。
これまでに生産した車は752万台。センチュリーからJPNタクシーまで、多種多様なクルマを世の中に送り出してまいりました。
まさに日本のモータリゼーションをけん引し、人々の暮らしを支え、クルマ文化をつくってきた工場だったと思います。
ここで簡単に東富士工場の歴史を振り返りたい。
1960年代、国内で急速なモータリゼーションが進む中、本格的なハイウェイ時代に対応するため、トヨタは、高速テストコースと十分な実験研究施設をあわせ持つ広大な敷地を求め、東富士の地に進出した。
その一角にできたのが、「東富士作業所」であり、1967年には、「場内外注」という形で関東自動車工業(以下、関自。のちにセントラル自動車、トヨタ自動車東北と結集し、TMEJとなる)が生産を始めた。
翌1968年には、敷地内に関自独自で建設を進めていた東富士工場が完成。社運を賭けた新工場の稼働に当たっては、約1,000 人の人員が必要になったが、その大半は横須賀の関自本社や工場から選抜された精鋭たちだった。
1980年台後半は、右肩上がりに市場が伸び、生産台数は著しく増加。成長を続けるトヨタの生産を支え、日本のモータリゼーションの伸展に貢献。
最盛期には2,000人が在籍、累計で7,000人が働き、トヨタの最高級車のセンチュリーや、乗用車の何倍もの耐久性を必要とするJPNタクシーなどを送り出してきた。
東富士工場の歴史をWoven Cityの未来へ
そんな東富士工場のDNAについて、豊田は語り始めた。ここからが冒頭で紹介した約束を想起させる場面である。
豊田社長 あいさつ
東富士工場のDNA。
それは、たゆまぬカイゼンの精神であり、自分以外の誰かのために働く「YOU」の視点であり、多様性を受け入れる「ダイバーシティ&インクルージョン」の精神です。
これらが「ヒト中心の街」「実証実験の街」「未完成の街」というWoven Cityのブレない軸として受け継がれてまいります。
「東富士工場の歴史をこの町の未来につなげたい」「地域の皆様から愛され、頼りにされる、この町いちばんの会社になりたい」
それが、私たち全員の想いであり、これから先も、決して変わることはございません。
これからも、地域の皆様とともに、未来に向けた歩みを進めてまいりますことをお約束して、私の挨拶とさせていただきます。
従業員と結んだ約束
2018年7月、TMEJ東富士工場に豊田の姿があった。閉鎖が決まった工場の従業員と直接話がしたいと考え、対話の場を持ったのだ。
そこで、ある従業員がこんな質問をした。
従業員
東北に行って、またクルマをつくりたいという気持ちはあるが、家族のことを考えると、一緒には行けない、(会社を)辞めざるを得ない人も中にはいると思う。
そういう人のことを考えると、喜んで東北には行けないという気持ちがある。
今後トヨタとして、この東富士がどうなっていくのか、今考えていることを教えてほしい。
声を震わせながら、自分よりも仲間のことを思いやる従業員の質問に対し、豊田は答えた。
豊田社長
これから50年の未来の自動車づくりに貢献できる聖地、自動運転などの「大実証実験 コネクティッドシティ」に変革させていこうと考えています。
まだ構想段階ではありますが、意志があれば必ずできると思います。
それは、会社で承認されたものでもなく、当時まだ豊田個人のアイデアに過ぎなかったが、豊田はのちに「仲間のことを思う皆さんに、一番初めに伝えたかった」と、その場で約束するに至った理由を振り返っている。
豊田の約束はもう一つあった。昨年12月に行われた、工場の閉鎖式でのこと。工場最後の日を迎える従業員にビデオメッセージでこう誓った。
豊田社長
Woven Cityでは、人が幸せになるために、さまざまなことに挑戦してまいります。
ジェームス(・カフナー)さん(Woven Planet Holdings CEO)と彼のチームメンバーと私の中で決めた約束があります。それは、この街は必ず、ヒト中心であるということです。
Woven Cityは更地の上にできる街ではありません。皆さんが働いた場所、残してくれた歴史の上にできる街です。
いつも自分のことよりも、仲間のこと、人の気持ちを一番に考える、皆さんが築いてくれた大切なことを、街づくりに関わるみんなで受け継いでいきたいと思います。
半世紀以上にわたりトヨタを支え、地域や自動車産業に貢献してきた東富士工場跡地にできるWoven City。
従業員が築き上げた歴史と精神を受け継ぐという固い約束を結んで、スタートを切った。