2019.07.01

第2回 「創業者の言葉の力」~全社員がセールスマン~

福岡トヨタ自動車株式会社 代表取締役社長 金子 直幹

福岡トヨタ自動車の金子直幹社長

今回、お話を伺ったのは福岡トヨタの金子直幹なおき社長。

福岡トヨタは自動車販売・レンタカー事業、バス、タクシーを手掛ける昭和グループの中核会社。また、トヨタ生産方式(TPS)に基づく業務改善を積極的に取り入れる販売店でもある。

トヨタ店という最も歴史の古いチャネルで、日々改善に取り組む金子さん。その根底にある想いに迫る。

「世の中から車がなくなればいいのにな」

最初にお伺いしたいのですが、昭和グループ、福岡トヨタの創業家に生まれたことを
どのように受け止めておられましたか?

金子姓で福岡にいることが、とにかく嫌でした。どこへ行ってもそういう目で見られ、学校でも、大人と接しても。だから「高校を卒業して、早く福岡を出たい」という思いが強くありましたね。社会人になる時も福岡に戻るっていう選択肢はあまりなかったんです。同級生や友達と会うとやっぱり、昭和バスとか、昭和グループの御曹司っていう目で見られて。自分という個で見てもらえる世界っていうのを求めていましたね。自分自身をあまり見てもらえてなかったという気がします。

私は、大学で商業デザイン、グラフィックデザインを専攻していたんですが、それを職業にすることはあまり考えられませんでした。就職活動をするにあたって、どうしようかなって悩んでいたときに、たまたま親父と話す機会があって、神奈川トヨタさんにお世話になることを決めました。 

神奈川トヨタでは、先輩も上司も同僚も、お客さまもいい方ばかりだったので、会社に行くのが好きだったんです。あるとき、店舗で一番売る先輩がぽつりと言ったんです。「世の中から車がなくなればいいのにな」って。「車がなくなったら売らなくて済むだろう」って。その一言が衝撃的で。

そのときに、「福岡トヨタの人ってどんな気持ちで働いているんだろう」と思ったのがきっかけで、福岡トヨタのことがものすごく気になるようになりました。また、父親が膵臓すいぞうを患い、周りの雰囲気も「早く帰ってきてほしい」という空気になった時期と重なり、福岡に戻る決心をつけて帰ったというのが、そのときの真相です。もうそのときにはなんとなく使命感に燃えている状況に変わっていたような気がしますね。

金子さんが戻るとなると、福岡トヨタでは大変なことになったのではないですか。

すごかったですね。私が帰るのに、大部屋の机の変更とか、誰を教育係に据えるとか、そういう事が一気に始まって。父は、福岡トヨタをはじめ、グループの中でも、もう雲の上の存在でしたので、社長の長男である私が神奈川トヨタから福岡トヨタに来るっていうことだけで、大きな話になっていたみたいです。

福岡トヨタは最初、立派な会社に見えましたね。でも、だんだん、そうじゃないということが見えてきました。現場の店長や営業スタッフ、エンジニアから直接話を聞くようになると、上の人たちの話とは全然違うなと。1人で現場を回るようになると、いろんな話を聞かせてもらえるようになりました。一番突き刺さったのは、「福岡トヨタで働いていても家なんか持てない」という言葉ですね。「どうせあんたの会社なんだろう」みたいな捨てゼリフで、何かすさんでいるなと。所長たちも営業スタッフたちも、すごく疲弊しているという感じを受けました。

私は、ずっと、一緒に働いている仲間のためになることをしたいと思っていました。「この人たちがやる気や、やりがいを持って働くことができる職場や会社をつくらないと絶対に駄目だ」と思ったので。何かいろいろ打つ手を探していました。「どうすればいい会社になるんだろう」って。

当時の福岡トヨタの成績は、下から数えて、常に落第生の烙印を押されている会社でした。成績を上げないと絶対に会社は良くならないし、売り上げを上げて利益を出さないと従業員にも還元できないしと、そんなジレンマを抱えて、しばらくは模索していましたね。

「この会社に車を売る以外の仕事をしている人はいない」

どのような手を打たれたのですか?

採用と教育はずいぶん変えました。若手の営業のエースを抜擢して採用担当者に据えて、優秀な学生を採用するという取り組みを会社としてしっかりやったというのは、今振り返ると、とても大きかったと思います。一番よかったのは、当時の営業本部長や車両部長が理解を示してくれたことですね。所長は毎月数字が読める営業スタッフを抜かれるわけですから死活問題ですけど。

今では年間を通して採用、教育で、しっかりとした組織が会社の中にありますが、当時、その彼を抜擢しなかったら、そんな組織も生まれていなかったと思います。

人材育成は思い付きやひらめきでやるんじゃなくて、ちゃんと人材育成マップをつくって、1年間通してエンジニアの層、営業スタッフの層、年次の層で研修プログラムをつくり上げるようにしています。今では体系的になっていますが、急にでき上がったわけではなくて、「研修は必要じゃない」っていう現場との軋轢もありながら十何年掛かって今日に至っているんです。PDCAのサイクルだと思いますね。

採用や教育以外にも、変革の手を打たれたとお聞きしていますが。

当時の営業スタッフは、自分の店舗じゃなくても、どこに売ろうが、どこの店舗に点検整備を入れようが、自分の成績になっていました。たまたまそこの店舗にいるだけで、もう福岡県中走り回っているみたいな、非効率な営業をやっていたんです。営業スタッフをどこの店舗に異動させるのも平気な会社だったんです。そこからやっぱり自分たちの店舗を基軸とした営業スタイルに変えようと。入庫も自分の店舗にしようと。そのエリアのお客さまから、この町のお客さまに愛されるお店をつくるというスタイルに、お店づくりを変えていったんです。ですから、当時、名前も「営業所」から「店舗」に変更しました。

創業者の言葉で、『全社員セールスマンとなり、業績の向上ときめ細かなサービスに徹せよ』という言葉があるのですが、この「全社員セールスマンとなって」ということを、繰り返し言い続けました。営業だろうがサービスだろうが業務だろうが本社の経理だろうが、役割が違うだけで、福岡トヨタという会社には、誰一人、車を売る以外の仕事をしている人はいないんだと。

でも最初は、創業者が言っている言葉なのに反発があって、俺はエンジニアだぞ、セールスマンじゃないみたいなことが。でも、繰り返し言い続けることと、紹介が上がったときに「1件のこの紹介をありがとう」って言うように心掛けることを続けて、少し浸透してきているかなと思いますね。

「親父や先輩方がいてくれたからこそ今がある」

お父様に対しては、どのような想いを持たれていたのですか?

社会人になってから反抗期が来た

私、社会人になってから反抗期が来たって言ってもいいぐらい、ものすごく対立していました、父と。神奈川トヨタで仕事をさせてもらっているときも、車が売れないとやっぱり空気が重くなって、明るい雰囲気じゃなかったんですよ。当時はバブル崩壊後でしたから。重い空気の中で、たまに東京に出張で来た親父から「直幹、今から一緒に飯でも食いに行かないか」とか電話がかかってきたら、「ふざけんなよ。今どういう状況か分かっているのか。あんた自動車ディーラーの社長だろ」とか。そういうことが続いて、親父自身が現場や実態を知らないということが何となく許せなかったんです。

福岡に戻ってからも、親父とは対立がしばらく続いていましたね。今振り返ると、若さなのか、世間知らずなのか、そういうことがずっとありました。

ただ、自分で本当に改革を始めてからは、そういうことは言わなくなりました。今では親父がいたから今がある。いろいろな時期があって、いろいろな先輩方がいて、しっかりお客さまとの信頼関係を築いてきてくれたから今があるということは心の底から思っています。全ての先輩やOBの方々がいてくれたからこそ、今日の福岡トヨタがあるということは自分自身にも言いきかせていますし、社員全員にもそれは事あるごとに伝え続けていますね。

「創業者の爺さんの言葉」

創業者であるお爺様への想いについてお聞かせください。

爺さんは唐津市の市長をやっているときのいろいろな功績もあり、バス事業、そしてトヨタ事業を育ててきたということもあって、名誉市民にまでさせてもらいました。田舎ですけれど、名士と称されていて、「道雄さんの孫」ということをすごく言われて育ってきたので、子供心にすごく爺さんは誇りでしたね。豊田社長ほどではないですけど、3代目でつぶしちゃいけないみたいな思いは私自身にも強くあって。まだ4代目に継げてないので、プレッシャーはすごくありますね。

私の後ろ盾はやっぱり創業者の言った言葉。うちも同族経営のグループで、私が何か言ったからといって、みんなが「はいそうですか」って聞いてくれるわけではありませんので。唯一聞いてくれる言葉があるとしたら創業者である爺さんの言葉で、それに反旗をひるがえすことはないだろうなと。私の言葉よりも、創業者の爺さんの言葉はすごく大切にしていて、その言葉を、爺さんが言っているように話すようにしています。特に一族の皆さんといろんなことを決めていかなければならないとき、方向を決めていかなければならないときっていうのは。

豊田社長がよく「喜一郎さんに自分の体を使ってくれ」と言われるのと同じだなって思いますね。表現は違いますけど、私も創業者の金子道雄がやりたいようにグループを進めていくことに、すごく意識を持つようにしています。

「人ってやっぱり人についていく」

販売店の方にとって、豊田姓の社長というのは、どのような存在ですか?

豊田社長に恩返しをしたい

私の場合、20年ほど前に、偶然にも、豊田社長がつくられた業務改善支援室がやろうとしている思いを知る機会がありました。それまで豊田章男さんの存在は存じ上げておりましたが、そのときから、どんな人なんだろう、どんな考えを持っている人なんだろうって。どうしてここに気がついて、これに取り組もうとしたんだろうということに、ものすごく関心を持ったんですよね。

でも私からしてみたら、改善活動に取り組まれていた豊田社長という存在は、極めて大きくて、もうとにかく感謝しかなくて。福岡トヨタが変われたのも改善活動のおかげなんです。それまで標準とか基準とか、みんなで共有するルールというものは存在しなかったので。改善活動をやり始めたおかげで、会社の骨格ができたんです。そのとき以来、ずっと改善室を会社でも持ち続けています。この基盤となる考え方や思想ができるきっかけをつくったのは、豊田社長が当時、業務改善支援室をつくられたことに端を発していますので、豊田姓の社長がどうこうというよりも、豊田社長に恩返しをしたいというのが、ものすごく私の経営の中に大きな軸としてあります。

豊田社長の期待に応えたい

2010年に、創業して初めて準総合表彰をいただいたんです。そのときにすごく褒めてもらえると思って豊田社長のところに行きました。「初めて準総合取れました」って言いに行ったら、「来年は直接手渡しで表彰状を渡させてくれ」と言われて。「おめでとう、金子くん」という言葉を期待していたんですが。そこから総合表彰を会社の悲願として取り組んだんです。それから7年かかりました。総合表彰を取るまで。とにかく、豊田社長から直接手渡しで表彰状を渡させてくれという思いに、期待に応えること。果たさなきゃいけない。それまで、総合表彰を取る、取らないということは、あまり重要度が高くなかったんですよ、私の中では。豊田社長の期待に応えたいという思いは私の原動力としてものすごく強くあります。生きていく上でも。

総合表彰では、豊田社長にすごく喜んでいただけたと思いますね。私は壇上で泣きましたから。ここまで来るのが長かったなっていうのと、ここまで来たらまたずっと取り続けなきゃいけないなっていうことですね。私もすごくありがたいお言葉をいただきましたし、そういうのを感じて、人ってやっぱり人についていく。これはプライスレスな世界で、私にとっては、ベースアップや臨時ボーナスなんかよりもっと価値があるものです。物心両面で人のやる気を引き出せるような経営者になりたいなと思いますね。

地元で福岡トヨタを愛してくださるお客様への感謝。創業者である祖父への感謝。父への感謝。会社の土台を築いた先人たちへの感謝。共に働く社員への感謝。そして、豊田章男への感謝。
時おり、当時のことに想いをはせて、目頭を押さえながら感謝の気持ちを口にする金子さん。

私たちはいろいろな方々に支えられて今日がある。感謝の気持ちと「ありがとう」の言葉を伝える素直な心。その大切さを教えていただいた3時間だった。