第4回 「いま決起するとき」~継承と変革~ 第一話

2019.07.22

「トヨタのためにも、守川さんの話を記録に残しておきたい」この企画を進めるにあたって、豊田が語った言葉である。

ネッツトヨタ栃木株式会社 代表取締役会長 守川 正博

ネッツトヨタ栃木株式会社 代表取締役会長 守川 正博

“トハンキョウ”と呼ばれる組織がある。

日本全国のトヨタ販売店の連携を強めるための組織で、正式名称はトヨタ自動車販売店協会という。その頭文字をとって“ト販協”と呼ばれている。

ト販協では、全国にいる販売店の代表者から理事長が選出される。その人は、いわば全国トヨタ販売店の取りまとめ役となる。

ネッツトヨタ栃木会長の守川正博さんは、2007年から6年間、ト販協の理事長を務めていた。

豊田章男が社長に就任したのが20096月。リーマン・ショックの影響もあり、トヨタが赤字に転落した直後である。

その後、2010年のプリウスのリコール、米国公聴会出席、2011年の東日本大震災など、苦境が続いたが、まさにその時、販売店としてメーカーのカウンターパートにいたのが守川さんである。

昨年末、守川さんがト販協の会長職を退かれるにあたり、社長の豊田は以下のような言葉と共に感謝状を守川さんに手渡した。

2010年のリコール問題の時、孤独を感じながら、ひとり公聴会に向おうとしていた私に、守川さんからいただいた「日本のことは任せてください」というお言葉、その一言がなければ、今の私はなかったと思います。

この話は何度もさせていただいておりますが、守川さんへの想いを語る時、この話をせずにはいられません。助けていただき、本当にありがとうございました。

「トヨタのためにも、国内営業のためにも、守川さんの話を記録に残しておきたい」
今回の「継承者」企画を進めるにあたって、豊田が語った言葉である。
これまでも、役員研修会での講演など、折に触れて、守川さんに「お話を伺わせていただきたい」とお願いをしてきたが、その度に、「私なんかが・・・」と言って、守川さんが壇上に立たれることはなかった。
今回、豊田の想いをしたためた手紙を守川さんに送ったことから、インタビューが実現することになった。

豊田が「残しておきたい」と言った守川さんの想いとは・・・
少しの緊張とお話を伺うことができる嬉しさ。守川さんが待つ宇都宮に向かった。

守川さんへのインタビューは全四話に分けてお届けしたい。

第一話 「二人の出会い ~若かりし日の情熱~」

小料理屋のカウンター

“ほとばしる情熱、今も鮮明に覚えています” 
Q.  社長の豊田と出会った時のことを教えてください。

今から25年前、名古屋の小料理屋さんのカウンターでご一緒したのが最初の出会いでした。

その時の豊田社長は、北陸地区カローラ店の地区担当員をされていて、トヨタ生産方式(TPS)による販売店の物流改善に取り組んでおられました。

当時、国内市場は成熟期を迎え、停滞感も漂っていた頃です。「販売店経営の土壌を変え、新しいことにチャレンジする活力と息吹を吹き込む活動にしたいんです」。若かりし日の豊田社長が、ほとばしる情熱、真剣な眼差しで、お話くださったことを私は今も鮮明に覚えています。
時代を超えて、(豊田社長は)今もそういう想いで、おやりになられている気がするんです。

その後まもなく、豊田社長は販売店の物流改善をする業務改善支援室※の室長になられました。
(※物流改善をより多くの販売店で実施するために当時、新設された組織)

私は、豊田室長率いる業務改善支援室に、当社への3カ月にわたる常駐支援をお願いすることにしました。豊田室長は、まず当社の物流センターを視察され、その直後の会議で「社内外注の無駄があります」と指摘されたんですね。この外注先は、私の父の時代からずっと続いていた取引先でしたので、ご指摘を受けるまで、私達は、なんの違和感もなく発注を続けていました。

“まさに風土改革…、企業文化が変わりました”

ところが、これを内製に切り替えるという改善に取り組んだ結果、年間1500万円の費用削減につながったんです。四半世紀前の1500万円って大きいですよ。今だって大きい。

スッと入ってこられて、物流センターをグルっと見て回られた直後の会議で、豊田室長が「これはおかしいんじゃないか」と言われた。物事の本質を見る眼力というか、鋭いものを感じましたね。「とても、この人には敵わないな…」と思いましたよ。

感謝するのはもちろんですけれども、尊敬の念も持った瞬間でしたね。

その後も、現場を巻き込んで共に汗を流すという、本当に文字通り昼夜を分かたずやっていただきました。食事にお誘いしても、一切断られ、本当に一緒にとられないんです。まさしく“手弁当”。自分達でその辺の弁当を買ってやっておられた。血のにじむようなご支援をいただきました。

物流センターというと、販売店の中でも、少し日の当たらない職場というイメージがあるんです。少なくとも、当社では、当時は日の当たらない暗い職場だった。

その物流センターが、TPSの手法で、ムダ・ムラ・ムリを徹底的に排除し、リードタイムの短縮を図ったことで、関係部署から感謝され、評価もされるようになった。これまでとは本当に見違えるような、明るく活き活きとした職場に生まれ変わったんです。たった3ヶ月で…ですよ。まさに風土改革…、企業文化が変わりました。

最初(3ヶ月前)はもうブーブー言いながら私の部屋に入ってくるわけですよ。物流センターの管理者が。「俺たちは、お客様にも店舗にも一切迷惑なんか掛けてませんよ」「緊急だと言われれば、夜を徹してでも届けています」「なんで、(メーカーの人達に)あんな風に偉そうに言われなきゃいかんのだ!」と不平不満タラタラだった。

しかし3ヶ月後の最終成果報告会では、そんな守旧派だった社員含めて全員が、改善チームメンバーとの別れを惜しんで涙していた。これは感動の一瞬でしたね。この光景だけは、今も鮮烈な思い出として残っています。

周りはみんな猛反対

Q.  なぜ業務改善支援室のサポートを受け入れようと思われたのでしょうか?

当時、「本当に、このままでいいのか」という閉塞感がありました。市場環境も停滞感があり、成長が鈍ってきたことで、なんとなく“どよん”とした雰囲気が漂っていた…、そんな時期でした。

しかし、先代の会長である父は「メーカーの“モノをつくる論理”と、販売店の“モノを売る論理”が、ひとつになるはずがない」と物流改善の導入には反対していました。しかし私は、この閉塞感を打破するには、改善支援チームに入ってもらうのもひとつの手法だと思っていました。

“本当に熱く語られていました”

そう思えたのは、小料理屋のカウンターでの会話があったからでした。
あの時、本当に熱く語られていました。担当されていた販売店の活動を「こんなに無駄がある!」「もの凄くおかしい!」「違和感の連続!」「ムダ・ムラ・ムリの固まり!」と、そんな風におっしゃっていたのを聞いて、私は「それはそうかもしれんな」って思ったんです。

実際に改善活動に入ってみれば、先ほど申し上げたとおり「販売のことを分かってないメーカーの人が…」と現場からは抵抗される。
しかし、本当に、一生懸命、共に悩み、共に昼夜を分かたず考える…、そういう中で少しずつ守旧派が「言われてみりゃ確かに、なんか働きやすくなったな」「早く届けられるようになって喜ばれるね」と変化してくる。そういうことですよね。

だから本当に現場に密着した、「一心同体」と言いますけれども、販売店の中で、これほどまでに改善、物事を変えていくことに取り組んだことがあっただろうかと思いました。改善という手法だけじゃなくて、心のありようというか、志というのか、そういうものが高ければ、最後は「人の心は動くもんだ」「組織は変わるもんだ」という、これは本当に驚きでしたね。

そして、小さな改善の積み重ねが販売店の風土を変え、大きな変革に繋がっていくことを学びました。

Q.  反対された中での業務改善の導入だったということですね?

当時、全国ほとんどのお店が、そうした反対論を唱えていた。それどころか、メーカー(トヨタ自動車)社内の国内営業部門も反対していた。だから、豊田室長は、本当に孤立無援。みんな周りは猛反対。誰も受け入れてくれないという状態。
でもね、孤立無援で、普通だったらやめるけど…。これが「創業家」ですよ、やっぱり。

豊田室長じゃなかったら、おそらく、今日の改善の風土は築けなかったんじゃないでしょうか。

トップの決断が企業の命運を左右する

“相互信頼の確かさを確認できました”
Q.  2010年のプリウスのリコールは、販売店にとっても、メーカーにとっても、忘れてはいけない大きな出来事だったと思います。当時のことをお話しいただけませんでしょうか?

トヨタに働く者に与えた衝撃と動揺というのは、極めて深刻なものがありました。そのような中、豊田社長は、文字通り決然として、自らが公聴会の場に立たれるという重大な決断を下されたわけです。

社長ご就任後の間もない時期ですよ。自らの退路を断ってまで、その責任を果たそうとされるその姿勢に、国内の販売店が奮い立たないわけがないですよ。全国販売店の営業スタッフやエンジニア達は非常に悩んでいたし、不安を持っていたと思います。

しかし、文字どおり“心をひとつ”にして、お客様に、懸命に、安心・安全をお届けしようと、猛烈な勢いで動き出した。このことが、当時のト販協理事長としては、大変ありがたかったし、これがトヨタの販売店の強さだなと思いました。

無事にお客様の安心・安全と、トヨタへの信頼を取り戻すことができた時、私たちトヨタは、本当に、こんなにも沢山の素晴らしいお客様に支えられてきたんだな…と改めて思い知らされました。
トヨタ自動車と販売店の相互信頼の確かさを確認することもできました。困難、苦楽を共にするって、まさに、こういうことだろうと思いましたね。

豊田社長の行動を通じて、危機に直面した時の経営トップの判断力、決断力、行動力が、いかに企業の命運を左右するかを実感しました。これが豊田社長じゃなかったら、どうなっていただろうと本当に思います。

そういうことを身近に学ぶことができたことは、私にとりまして大変貴重な経験となりました。

品質問題の時は、本当に大変でした…。

“あの時は、そのぐらいしか言えなかった”
Q.  公聴会に向かう豊田に「日本のことはお任せください」と声を掛けられた時の話をお聞かせください。

あの時は、そのぐらいしか言えなかったもの…

豊田社長が、悩みに悩んでおられる姿は、ト販協の役員会の場でも痛いほど分かっていましたから、私なりにできることをお伝えしたかったという気持ちでした。
その時は、まだ国内のお客様が不安を感じられていた時期でしたから、お客様への対応はお任せください、ご安心くださいと、お手紙を書かせていただいたと思います。

豊田社長の悩んでおられる姿、私たちにはよく分かったし、辛かった。そういうものを共有する中で、なんか自然に、格好つけるわけでも、なんでもなくて、そのぐらいのことしか販売店はできないぞ…と。ト販協の副理事長達とも気持ちを確認して、全国の販売店にも発信をしました。

“忘れちゃいかん”

あの時、販売店も、心ひとつに乗り越えていけたなというふうに思います。そのことだけは、嬉しかったですね。もちろん、あんなことは起こらないほうがいいんだけど、あれが起きたことによって、今があることも事実ですよ。

大事なことは「Never forget」。決して忘れちゃいかん。

Q.  トヨタが一番大変だった時に、ト販協、自販連のトップとして、守川さんは豊田のカウンターパートにいました。どのように豊田を見ていましたか?

「豊田社長は嵐を呼ぶ男ですね」って私が申し上げたんです。そしたら社長が「変なこと言わないで下さいよ、ただでさえ評判悪いんだから!」とおっしゃった。それを今でも覚えています。

「いやいや、そういうことじゃありませんよ。『嵐を呼ぶ男』というのは、石原裕次郎が主演した映画で、逆風をものともせず突き進む強い男の話ですよ。」と返したら笑っておられた。

でも、本当に、次から次に嵐を呼ぶ…、大変な時代でしたね。たまたま、その時にト販協の理事長が私でした。

Q.  そうすると守川さんも嵐を呼ぶ男でしょうか?

いやいや…。“雨男”って、よくいうじゃないですか。よく分からないんだ、本当に誰が雨男だかなんてね。だから、どっちが嵐を呼んだのかは分かりません(笑)。

(あとがき)
守川さんと豊田。どちらが呼んだ嵐かは分からないが、当時のトヨタはたしかに嵐の中にあった。そんな嵐があって今のトヨタがある。第二話では、守川さんご自身の経営に対する想いをお聞きした。

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