経営者、豊田章男。その数々の決断の根底には、トヨタ生産方式のものの見方があった。企業経営者を中心とする200名へ届けた講演の内容を公開する。
豊田章男会長は1月13日、都内で200名の企業経営者や役員を前に「私とTPS(トヨタ生産方式) 現場に主権を取り戻す闘い」と題した講演を行った。
会場となったのは、モノづくりの会社で組織するNPS研究会 * 40周年の節目の総会。
数々の記者会見に出てきた豊田会長だが、実は、講演の壇上に立つ機会はこれまでほとんどなかった。まして、TPSという特定のテーマで45分も話したのは、今回が初めて。
TPSは単に工場の生産性を上げる取り組みではなく、自身の「経営哲学」だという豊田会長は、TPSとの出会いに始まり、社長就任後の闘いに至るまでの軌跡をリアルストーリーで話した。
トヨタイムズにとっても永久保存版となるであろう講演を、ノーカットで紹介する。
*参考:NPS/NPS研究会とは?
NPSとは「The New Production System」の略で、環境の変化に柔軟、迅速に対応して、効率よくモノづくりを推進するマネジメント手法を指す。
同研究会は、新しい生産方式(NPS)の確立を目指して、ウシオ電機の木下幹彌(きのした・みきや)氏、オイレス工業の川﨑景民(かわさき・かげたみ)氏、紀文食品の保芦將人(ほあし・まさひと)氏らが中心となって始めた自主研究会を起点として発足。
TPSを自動車以外のいかなる業種にも応用できる経営哲学ととらえ、現在、45社以上の会員企業(1業種1社)が参画する。
トヨタでは1982年、TPSを体系化した大野耐一 元トヨタ自動車工業副社長が同研究会・初代最高顧問に就任。昨年からは第4代最高顧問として、友山茂樹エグゼクティブフェローが在任している。
NPS研究会との出会い
皆さん、こんにちは。豊田章男です。
まずは、このたびの能登半島地震により、お亡くなりになられた方々のご冥福をお祈りいたしますとともに、被災された皆様に心よりお見舞い申し上げます。
皆様が、一日も早く、日常と笑顔を取り戻せるよう、550万人の仲間とともに、私自身も行動してまいります。
私とNPS研究会との出会いは、1999年、今から20年以上も前にさかのぼります。
かつて、この研究会の顧問を務められていた林南八さんに連れられて、初めて、この総会に参加させていただいたのですが、点滴を打ちながら講演を続ける鈴村喜久男さんのお姿、聴衆を圧倒する、その迫力に感銘を受けたことを、今でも鮮明に覚えております。
まさか、この壇上に自分が立つことになるとは。それが今の正直な気持ちでございます。
本日は、私とTPSの出会いから社長就任後の闘いに至るまで、リアルストーリーでお話しさせていただきますので、よろしくお願いいたします。
Who am I ?
①クルマとスポーツ(幼少期~学生時代)
最初に自己紹介を兼ねて、私自身の話をしたいと思います。
私は、1956年に、豊田家の長男として生まれました。私が生まれたとき、父・章一郎はトヨタの取締役でした。
父がいろいろなクルマに乗って、家に帰ってまいりましたので、私のそばには、いつも、クルマがあった気がいたします。
そんな中、忘れられない思い出がございます。
1966年5月3日。富士スピードウェイで、第3回日本グランプリの決勝レースが行われました。父は、10歳の誕生日プレゼントに、私をレースに連れていってくれたのです。
プレゼントの中身は、走り抜けるカッコいいクルマと、うるさいエンジン音。そして、クルマに関わるカッコいい大人たちの姿でした。
私はクルマが大好きになりました。
いま思えば、父からの一番のプレゼントは、私の中に「カーガイ・モリゾウ」の原点をつくってくれたことかもしれません。
一方、このころから、私自身には、常にトヨタという会社が重ねられ、「創業家のボンボン」というレッテルがついて回るようになりました。
②トヨタ入社を決意
大学を卒業した私は、アメリカの投資銀行に入社をいたしました。
世の中のお金の流れや最先端の金融技術を学びたいという動機に加え、ひとりの人間として、「トヨタ」とは違う人生を歩みたい。そんな想いで、選んだ道だったと思います。
しかし、ここでも「トヨタの御曹司」という目から逃れることはできませんでした。
「Who am I ?」「私は一体何者なんだろうか?」そんな気持ちが、私の中で、どんどん大きくなってまいりました。
どうしても逃れることができないなら、「トヨタ」と真正面から向き合ってみよう。「自分が何者なのか?」そのヒントが見つかるかもしれない。
そう考えた私は、トヨタ自動車への入社を決意したわけです。
当時、社長でありました父からは、ひと言だけ。「トヨタには、お前を部下にしたいと思う上司はいないぞ」と言われました。実際に入社してみますと、まさにその通りでした。
私に近づくと、周りからは、「社長の息子に気をつかって」とか、「ゴマをすろうとしている」とか言われますし、逆に、「社長である父親に言いつけられるかもしれない」と思うと、きつくあたることもできない。
トヨタの人たちからすれば、「厄介な存在」だったと思います。
私は、いつの間にか、「できるだけ関わらない方がよい存在」、いわば、「アンタッチャブルな存在」になってしまいました。
③TPSとの出会い
そんな私にも、「救い」がありました。それは、最初に配属された職場が元町工場だったことです。
元町総組立部、機械部をはじめとする「現場」の人たちとの出会い、トヨタ生産方式「TPS」との出会いが、私の心の支えになりました。
当時の私は、時間を見つけては「現場」に行き、自分にできることを探していました。
あるとき、その姿を見ていた「現場」の人たちが、私が「現場」をまわりやすいようにと、壊れた自転車を3台寄せ集めて、私専用の自転車を1台つくってくれました。
このときのうれしさは、一生忘れることはありません。
元町工場の「現場」の人たちは、私を「創業家」ではなく、「ひとりの新人」「ひとりの人間」として接してくれました。
それはなぜか? 「現場」の人たちに「TPS」が根付いていたからだと思います。
「お前は見たのか」「事実は何か」。この「TPS」のものの見方、考え方こそ、人生において、「素の自分を見てほしい」。そう願い続けてきた私が求めていたものであったと思います。
ここで映像をご覧ください。
この林南八さんの勧めで、「TPS」の伝承者の一人となるため、私は「TPS」の総本山である生産調査部で、本格的に修行をすることになりました。
何とかここまで、私が、トヨタの「責任者」としての役割を果たしてこられたのは、私の中に「TPS」の思想と技と所作が根付いていたからだと思っております。
ご承知のとおり、TPSの2本柱と言えば、「ジャストインタイム」と「ニンベンのついた自働化」です。
「ジャストインタイム」とは、「リードタイムを限りなく短縮する」ことであり、「自働化」とは、「異常がわかる」「異常で止める」現場を具現化するものです。
実は、この「異常で止める」ということは、経営のさまざまな局面において、その「責任者」であるトップにこそ、求められることだと思っております。
私は社長に就任して以来、数多くの「決断」をしてまいりました。「決断」とは「断つ」ことを「決める」と書きます。
その文字通り、これまで私が下してきた決断は、「(GMとの合弁会社)NUMMI撤退」「F1撤退」「オーストラリア生産撤退」「TMEJ(トヨタ自動車東日本)東富士工場閉鎖」など、誰かが悲しむ決断ばかりでした。
すべてに共通して言えることは、必ず、その「現場」に行き、自分の目で見て、耳で聞いたことをベースに、「悲しむ人の顔」と「現場の光景」を思い浮かべながら、決断してきたことです。
トップの重要な役割は、「決断」、すなわち「やめること」を「決めること」だと思います。今、評価されることを決めるのは、誰でもできます。
後世のために「やめる」ことは、「責任者」としての覚悟をもったトップにしか決められません。
現場がわかり、イメージできるからこそ、すべての責任を負える。つまり「決断」できるわけです。
「お前は見たのか?」「現場を知っているものが一番強い」。元町工場や生産調査部で教わりました「TPS」が、今では、私の経営哲学になりました。
ただし、そこに至るまでには、乗り越えなければならない大きな壁がありました。最初の壁は、生産と販売、つまり、昔のトヨタ自工とトヨタ自販の壁でした。