経営者、豊田章男。その数々の決断の根底には、トヨタ生産方式のものの見方があった。企業経営者を中心とする200名へ届けた講演の内容を公開する。
トヨタの壁を壊す闘い
①販売店での業務改善
生産調査部の後、1992年から国内営業部門に異動し、販売店の地区担当員になりました。そこで目にしたのは、信じられない光景でした。
生産現場が、知恵と工夫で、リードタイムの短縮に取り組み、組立工場を数時間で出たクルマが、販売店のヤードでは何週間も滞留していたのです。
「トヨタのジャストインタイムは工場の中だけなのか?」そう思うと、居ても立ってもいられない気持ちになりました。
「トヨタと販売店、お客様をつないでこそのジャストインタイムではないのか」。そんな想いで、国内営業部門の中に立ち上げたのが、業務改善支援室でした。
しかし、それは、国内営業部門はもちろん、販売店からも歓迎されない存在でした。
周囲からは「TPSだか、ジャストインタイムだか知らんが、モノをつくるのと売るのは違う」と白い目で見られていました。
当時は、トヨタ自工とトヨタ自販が合併してから、10年がたっていましたが、まだ、そこには、生産と販売の厚い壁があったのです。
当時の様子を、販売現場で一緒に、改善に取り組んでいただいたネッツトヨタ栃木の守川(正博)会長が話してくださいました。
こちらをご覧ください。
販売店の改善を通じて、実感したことがございます。それは「TPSは生産現場だけのものではない。すべての業務、職場、現場に通用する。そして、変革を拒もうとする壁を壊すことができる」ということです。
壁をつくるのは、いつの時代も、本社の事務・技術員のエリートです。
エリートたちが会議室でつくった壁は、「現場」に行き、彼ら彼女らを巻き込んで、改善に取り組めば、必ず壊すことができる。
私はそう信じて、これまで多くの壁を壊してまいりました。
②中古車カイゼンとGAZOO
販売店の業務改善を進める中、中古車ビジネスの可能性に目をつけました。
下取り車の再販までのリードタイムを短縮しようと下取り車をデジカメで撮影し、すべての営業所の端末ですぐに商談に入れる「中古車画像システム」の開発に乗り出しました。
当時としては、画期的なシステムでしたが、トヨタ社内からは「画像でクルマが売れるはずがない」と猛反発にあいました。
「中古車画像システム」は、トヨタブランドを名乗ることができませんでしたので、「画像」をローマ字にして、「GAZOO」と名乗りました。これが「ガズー」の語源です。
これ以降、私にとって「GAZOO」は「変革の狼煙」になりました。
③ニュルと成瀬さんともっといいクルマづくり
私が「もっといいクルマづくり」への「変革の狼煙」として始めたのが、今やスポーツカーのグローバルブランドとなった「GR」、「GAZOO Racing」です。
それは、23年前、伝説のテストドライバー、成瀬弘さんとの出会いから始まりました。私の顔を見るなり、成瀬さんは、こう言いました。
「テストドライバーは命をかけてクルマを走らせている。あんたのようなクルマの運転もわからない人にああだ、こうだと言われるのは迷惑だ。でも、運転に興味があるなら教えるよ」
そこから私の運転訓練が始まりました。
成瀬さんには、ゆるぎない信念がありました。「道が人とクルマを鍛え、人がクルマをつくる」。だからこそ、モータースポーツを、クルマと人を鍛える「もっといいクルマづくり」の基盤にすべきである。
その信念のもと、成瀬さんの勧めで、私は、初めて、ニュルブルクリンクの24時間耐久レースに参戦することになりました。2007年6月のことです。
当時、私は、副社長になっておりましたので、世間からは「ボンボンの道楽」「GAZOOは御曹司である章男のホビー」など、さんざん叩かれました。
当然、トヨタ本社からのバックアップは一切ありませんし、トヨタを名乗ることもできません。
そこで、私は「モリゾウ」と名乗り、チーム名も「GAZOO」といたしました。
もちろんお金もありませんので、中古で購入した2台の「アルテッツァ」が私たちの相棒でした。
こちらの映像をご覧ください。
ニュル24時間レースで2台とも完走したのは奇跡でしたが、一方で、非常に悔しい想いもいたしました。
他のメーカーは、将来出す予定の開発中のスポーツカーを走らせています。しかし、トヨタには、ニュルで鍛えられる現役のスポーツカーはありませんでした。
抜き去っていく他メークのクルマからは、「トヨタには、こんなクルマづくりはできないだろう」という声が聞こえるようでした。
「あなたにはできないでしょ」。常に言われてきた、この言葉への反発、悔しさが「もっといいクルマづくり」の原動力になったと思っております。
経営危機で迎えた社長就任
①赤字転落後の社長就任
私がニュルに挑戦したころのトヨタは、アメリカが牽引する形で海外販売を伸ばし、毎年、世界販売台数の過去最高を更新。
ついにはGMを抜き、台数規模で世界一の自動車メーカーとなり、世間では、トヨタを称賛する記事や書籍がたくさん出て、まさに「我が世の春を謳歌する」、そんな状態だったと思います。
そして、この好調は、ずっと続くと思われました。リーマン・ショックが起こるまでは。
そのリーマン・ショックによりGMが破綻いたします。トヨタも、2兆円を超える利益を一瞬にして失い、創業以来、初めて赤字に転落する中で、私は社長に就任いたしました。
「こんな危機的状況を3代目のボンボンが乗り越えられるわけがない」「お手並み拝見」「早く失敗して、やめればいいのに」
そんな声が、社内からも社外からも聞こえてまいりました。
私は「誰からも望まれない社長だった」と思います。それでも、私は、何とかして会社を再建しようと、一日も休まず、必死に、現場を飛び回っておりました。
「もっといいクルマをつくろうよ」。トヨタの仲間には、ただ、それだけを言い続けてまいりました。
そして、私自身がテストドライバーの一員として、命がけでハンドルを握り続けました。
「休まずに働き続ける姿」と「クルマの開発に命を懸ける姿」を見せること。私には、それしか、トヨタを立て直すやり方が思いつかなかったのです。
②公聴会への出席
そんな矢先、リーマン・ショックを上回る「会社存亡の危機」に見舞われることになります。世界規模でのリコール問題です。
トヨタの信頼は崩れ去り、私は「しんがり役」として、アメリカの公聴会に行くことになりました。
今思えば、あれは「私自身をつぶすゲーム」だったのかもしれません。会社からも、国からも見捨てられた気がいたしました。
このときに聞こえてきたのは、「あなたにはできないでしょ」。やはり、この言葉でした。
四面楚歌の状況で、私にできることは、トヨタの誠実さを伝えることしかない。そう思いました。
対応が悪いとか、遅いという批判は素直に受け止めて謝罪をしよう。しかし、嘘をついているとか、隠しているとか、ごまかしているとか、いわれのない誹謗に対しては、絶対に妥協しないで闘おう。
トヨタの本当の姿を、議会の人たちだけではなく、その先にいる、多くの人たちに伝えよう。
それがトヨタの仲間を守ることにもつながり、次に社長になる人に、「責任をとる」ということを、身をもって示すことにもなる。
そう決心したとき、私の中に、「入社して初めて、自分自身がトヨタの役に立てるかもしれない」という「喜び」や「うれしさ」に似た感情が生まれたことを今でも鮮明に覚えております。
「逃げない。ごまかさない。嘘をつかない」。これは、リコール問題のときに、私が世界中の人々とかわした約束です。
私がこの約束をできたのは、「現場」の仲間がいたからです。
トヨタ本社では、エンジニアたちが昼夜を問わず、走行試験を繰り返し、「何が事実なのか」を徹底的に追究してくれておりました。
「事実を見ているヤツが一番強い」。現場に生きている「TPS」が、トヨタと私を守ってくれた。そう信じております。
そして、私が、命を懸けて守ろうとしてきた仲間。実は、その仲間に私自身が守られていた。そう思った瞬間、涙があふれ出しました。
後の株主総会で、株主の方から「社長たるもの涙を見せてはいかん」と言われましたが、あの涙だけは、どうすることもできなかったと思っております。