東京2020をサポートしたロボットを特集。第2回はおもてなしロボット「HSR」の開発チームを取材した。
トヨタはオリンピック、パラリンピックのワールドワイドパートナーとして、東京2020では、車両供給の枠を超えて、さまざまなロボットで大会をサポート。アスリートの熱戦の裏で汗を流してきたプロジェクトメンバーの挑戦を3回にわたって描く。第2回は、HSRのプロジェクトチームをピックアップする。
HSR(Human Support Robot)は、2012年に開発がスタートした、家庭内での生活をアシストするための生活支援ロボット。高さは約100cmと、車椅子ユーザーとほぼ同じ目線。全方位台車に乗った小回りの利く円筒型の小型なボディに、上下動する格納式のアームを備えることで約1.2kgまでの荷物を持ち運ぶことができ、「床の上の物を拾う」「棚から物を取ってくる」などのサポートを行なう。
2015年には、国内外の複数の研究機関などと共に「HSR開発コミュニティ」を発足し、HSRを研究用として貸与。現在では仲間の輪が広がり、国内外14カ国、46拠点(2022年1月末時点)と、ソフトウェアやノウハウなど研究開発の成果を共有し、連携することで技術開発を推進。障がい者や介護福祉関係者などの評価も踏まえて改良を重ね、早期実用化を目指している。
お客様目線を徹底した二人三脚の開発
HSRは東京2020の大会期間中、国立競技場内に設置された車いす観戦席を利用するお客様への移動と観戦サポートを担うことになった。
具体的には、車いすのお客様に対して、①人混みの中の移動のストレスを低減するためエントランスから「観客席までの先導案内」、②真夏の観戦を心置きなく楽しんでいただくための「水の配布」。
すべての来場者に対して、③不要な荷物を持たずに身軽に移動していただくため、帰宅前の「ゴミ回収」、といった移動に関する3つのサポートと、④一生に一度の思い出を記憶に残していただくための「写真撮影サービス」が当初の実施プランとして想定されていた。
「そもそも、生活支援ロボットとして家の中での使用を前提に開発されたHSRが、スタジアムという特殊な環境下を自由に移動するには、改善すべき点が散在していました」とR-フロンティア部の高橋正浩主任は当時を振り返る。
高橋主任/運営責任者
部屋の中とは異なり、広大なスタジアム内を自由に走行するうえで、まずHSRの位置情報を正確に把握する必要があります。
そのために、まずは会場の地図をモデリングしました。対象物までの距離やまわりの情報を把握するためにLiDARというレーザーセンサーをHSRの前後に1台ずつ内蔵しましたが、これだけでは通路に人が溢れた状況下でレーザーが壁まで届かず、正確に自分の位置を計測できない恐れがあるため、天井向きにカメラを2台取り付け、あらかじめ収録した天井の柄とマッチングさせることで位置情報を把握する技術も採用しました。
用途の異なる計4台のデバイスを組み合わせることで人が往来するコンコースでの安全走行が可能に。また先導案内の際、車いすのお客様がついて来られているかも後方のLiDARでチェックできるようにしています。
これらは、東京2020に向けた開発がスタートする前には搭載していなかった機能です。東京2020ではあえて全自動化せず、人がモニター越しにオペレーションする遠隔操縦と自律機能を組み合わせることにしました。そうすることで、オペレーターはおもてなしの会話をしながらお客様にサービスを提供することができます。
また、オペレーターの操作性を向上させるため、視野が65°だった前方のカメラは165°見渡せる広角のレンズに変更しました。
さらに、騒音対策もしています。2018年に豊田スタジアムで実証実験を行なった際に、大きな歓声が上がると、HSRが車いすのお客様のそばに近くにいてもオペレーターに声が届かないほどの騒音状態となることが分かりました。HSRの目の前にいるお客様の声をオペレーターがクリアに聞き取ることができるよう、マイクも変更しています。
こういったすべての仕様について、オペレーターの皆様と共にトライアンドエラーを繰り返しながら、オペレーターの感覚的な部分まで細かく技術を詰めていきました。
技術的なアップデートだけでなく、実際にどのようなおもてなしが車いすのお客様に求められるかに関しても、遠隔操縦をするオペレーターと二人三脚で開発を進めた。その中心で、多くの気づきを与えてくれたのが、自身も車いすユーザーであるトヨタループスの村瀬礼美だ。
村瀬/オペレーター
当初のプランでは、来場してすぐにウェルカムドリンクとして水の配布が予定されていました。車いすユーザーの視点に立つと、観客席に着く前に受け取ると手荷物になり、移動中の負担が増えてしまいます。そういう意味では、席に着いてから渡すのが最も負担が少ないのではないかと開発チームに提案させていただきました。
また、水を渡す際に、ビニール袋に入れると便利じゃないかという案もあがりましたが、それもまた負担をかける恐れがありました。例えば、上半身に麻痺がある方の場合、その袋から水を取り出すのもひと苦労なんですよね。
私が勤務するトヨタループス
※
の同僚にも手が不自由な方がいるので実際に試してもらい、HSRがどのくらいの高さやどの位置で水を差し出すと受け取りやすいか。こういった細かな改良を繰り返していきました。
開発者目線と、当事者にしか分からない車いすユーザー目線との両輪で開発は進んでいく。そんな折、新型コロナウィルス感染拡大による影響で大会の延期が決定。積み上げてきた実施プランの変更、また中止が検討されることになる。
組織委員会との話し合いの末、東京2020パラリンピックのみでの活用が決まるとともに、活動エリアは、車いす観戦席がある競技場1階のスタンドの一部から、1階の全スタンドの外周通路と入口ゲート付近へと拡大されることになった。しかし、無観客開催のため「観客席までの先導案内」は行わず、大会関係者に対して、「水の配布」、「ゴミ回収」と「写真撮影サービス」を実施することに。
活動エリアの拡大に伴い、オペレーターによる遠隔操縦の比重を増やすことで開発は再スタートした。
「ヒト中心」の“トヨタらしい”サービス
延期前のサービスについて「延期前はオペレーターとお客様のリアルタイムでの会話の割合が小さく、オペレーターの私たちも、決まったセリフを淡々と話すだけで、もっと私ならではのサービスができないかなって思っていたんです」と村瀬。延期を機にオペレーターが参加する領域が広がったこともあり、お客様とのより自然な会話を増やすプランに変更。“ロボットだけど、人のような温かみ”を与えることに意識して取り組むことにした。
そのひとつが、HSRの首の動き。「オペレーターの顔をHSRのモニターに映しているんですが、HSRの中のオペレーターとお客様の目が合うように、お客様の顔の高さに合わせてHSRの首の角度を動かしてみました。これは実証実験のなかでオペレーターのメンバー同士で話し合いながら生み出した動作なんです」と村瀬。以降、基本動作としてマニュアルにも加えられることに。他にも、会話しているときの頷き、席の位置を尋ねられた時は体の向きやアームの動作も加えて「あちらです」と案内するなど、人間味ある動きを意識したことで、HSRの動きが見違えるように変わっていったという。
本番となる、東京2020パラリンピックでは、トヨタループス(豊田市)からオペレーターが遠隔操縦を行い、まるで1台1台が個性を持っているかのように振る舞う姿が競技場に広がっていた。
遠隔からオペレーターが大会関係者の方と談笑しながら記念撮影したり、人の横を通り過ぎる際はHSRの静かな走行音に気が付かれない方もいるので衝突を避けるために「通ります」とか呼びかけをしたり、観客席を駆け回った。
そして村瀬がHSRをオペレーションする際の日課にしていたというのが、いつも通る売店の方に挨拶すること。
「毎回挨拶するロボットがいるって面白いかなと思ってやってみました。そういったことを続けていると、売店の方から、「今日の中の人はキミなんだね」と話しかけていただく機会が増えて、自然と顔見知りができ、「こんにちは」と挨拶してくださる方が増えていきました」と、徐々に大会関係者の方に認識してもらえる存在になっていったという。
なかでも、村瀬が印象的だったと話すのが、海外メディアの方とのやりとりだ。「ロボット越しでも人の気配を感じてほしいと思い、冗談のつもりで、観客席の端にある扇風機の前までHSRを動かし、扇風機の前で涼んでいるフリをしていたら、海外メディアの方が英語で「それ本当に涼しいの?」って声をかけてくれたことがありました。ロボットを通して冗談も伝えられるんだ、しかも海外の方に。オペレーターとして、とても自信になる出来事でした」と言う。そうした姿は世界に発信された。
その様子を見たR-フロンティア部 森健光主幹は、「おもてなしの心を持って人がオペレーションするとロボット越しでも、ちゃんと伝わるんだ」と感じたという。
森主幹/技術責任者
やはり人とのコミュニケーションは、人が関わり合いを持つことで安心や温かみを感じられるものになるのだと思います。
東京2020パラリンピックの開催期間中に記念撮影した写真データは何百枚分にも達しました。人を介したサービスを実施したことで、より多くのコミュニケーションが生まれ、その結果、これほど多くの人の思い出を記憶に残すことにつながったと思います。
これは、オペレーターを務めたトヨタループスの皆さんの力があってこそ。お客さまに喜んでいただけるサービスをしっかり作って提供していこうと、始まったプロジェクトだったので、無観客の緊迫した雰囲気の中で、多くの大会関係者の方にひと時の癒しや思い出となるサービスを提供できたことに嬉しく思います。
私たちの(遠隔操縦と自律機能を組み合わせた)ロボットを使えば、困っている人に優しく声をかけ、その人に寄り添い、手を差し伸べる、そんな“トヨタらしい”サービスを提供できる、その可能性を感じました。
人の仕事をロボットに置き換えるだけでなく、いかに人の活動を支え、共生するか。そんな“ヒト中心”の考え方から生まれた“トヨタらしい”サービスが、多くのコミュニケーションを生み出した。
そして迎えた大会最終日。稼動した23台のHSRをスタジアム1階の外周に等間隔で並べて、最後に大会関係者をお見送りすることに。
「一部、オペレーター不在の自律モードのHSRも混じっていたのですが、オペレーターが入っているHSRだと、皆さん、モニター越しに笑顔で手を振ってくれるんですよね」HSRを介して遠隔からでも大会関係者の方とオペレーターの心がつながっていたことを再認識する出来事だった。
“場所”を超える。ロボットが秘めた可能性
東京2020を通じての経験は、HSRチームにとても多くの気づきを与えてくれるものだった。なかでも、村瀬は大会を終えた達成感に加え、はじめての経験だった接客業に喜びもひとしおだったという。
「期間中は夢のような時間でした。なんと言っても、私にとってはじめての接客体験でしたから。まさか私が接客する日が来るなんて、夢にも思っていませんでした。障がい者の職業選択において、事務職などのデスクワーク以外は諦めて生きてきたので、ロボットを介すことでこういう道があるなんて、驚きました」と職の選択肢が限られている方にも希望を与える取り組みになった。
その村瀬の経験を受けて、HSRのプロジェクトに、さらなる発展が見えてきたとプロジェクトリーダーのコネクティッド先行開発部(当時R-フロンティア部)戸田隆宏主幹は言う。
戸田主幹/プロジェクトリーダー
ロボットの遠隔操縦と自律機能を組み合わせ、また使い分けることがサービスとして最善かはまだ分かりません。ただ今回の東京2020で再認識したのは、要介護者や障がい者、ほかにも介護育児休暇中の方などが、ロボットを介せば、“場所”という概念を超えて価値を提供できることです。
単純作業を繰り返す労働はロボットに任せ、働く楽しさが担保できる作業は人を介する。これができれば、働き方改革や、新たな雇用創出にとっても大きな一歩になるかもしれません。そういうことをイメージしながら、オペレーターに何をやってもらうか、また何を自動化するか、そこをHSRの開発においても、改めて再検討していきたいと思います。
インターネットがなかった時にはテレワークは難しかったように、次はロボットが働き方を変える。生活支援の目的はもちろんですが、雇用創出の可能性も秘めた取り組みであること自覚して今後は開発に取り組んでいきたいと思います
HSRのようなロボットがあれば“場所”を超えることができる。生活支援だけでなく、雇用創出という更なる可能性を見据えて、HSRチームは次の大きな一歩を踏み出した。
―トヨタ自動車はオリンピックおよびパラリンピックのワールドワイドパートナーです―