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「挑戦のきっかけは、いつも誰かの一言だった」 パラ陸上&スキー・村岡桃佳 ―アスリートを支える人々―

スポーツ 2021.05.18 UPDATE

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表彰台にのぼり歓声やフラッシュを浴びるアスリートたち。その傍らには彼らを支える「人や技術」がある。バラエティに富んだサポーターはいかに集まり、どんな物語を生み出してきたのか。そこから未来への挑戦を可能にする「鍵」を探っていく。

陸上競技とアルペンスキーの“二刀流”

2021年3月のスポーツの記事を追いかけると、村岡桃佳選手が2人いるのではないかと錯覚してしまう。3月9日~13日、長野県の菅平高原で行われた国際パラリンピック公認レースのアジアカップスーパー大回転で優勝。その後も大回転、回転とレースは続き、全6レース中5レースで表彰台の真ん中に立った。

Copyright堀切功/日本障害者スキー連盟

3月20日、今度は舞台を東京都の駒沢陸上競技場に移し、パラ陸上の日本選手権で女子100メートルと400メートル(車いすT54)の2種目で優勝した。わずか10日の間に、雪面とトラックの両方を制覇したのだ。2021年の東京2020パラリンピックと北京2022パラリンピック、村岡選手は陸上競技とアルペンスキーの“二刀流”での活躍が期待されている。

このように書くと、村岡選手が無敵の女王のように思われるかもしれない。実際、2018年の平昌パラリンピックでは金メダル 1つを含む5つのメダルを獲得、パラ陸上でも100メートルの日本新記録を樹立している。けれどもここに至るまでは、「泣きながら(アルペンスキーの)ワールドカップのポイントを計算して、眠れなかった夜もありました」と振り返る。

村岡選手がパラ競技と真剣に向き合ってきたことが、現在の成績につながっていることは疑いようがない。けれども、彼女が歩んできた道のりを聞くと、周囲からのサポートや、周りの人々から受けた刺激が、成長につながったようにも見えてくる。

車いすスポーツを始めて人生が変わった

幼少時は活発で外で遊ぶことが好きだったという村岡選手だが、4歳のときに病気の影響で下半身が麻痺すると、次第に内向的になったという。

一般の小学校に進んだので、周りには健常者の友だちしかいなかったんです。でも私は同じことが一緒にできないのが嫌でした。たとえば鬼ごっこや追いかけっこをしても、私は車いすだから動きが遅い。そこでタッチされるのも嫌でしたが、気を使ってタッチをされないのはもっと嫌でした。そんな私の気持ちを察したのか、小学2年生のときに、父が“車いすスポーツの体験イベントがあるよ”、と勧めてくれたんです。あまり気乗りはしなかったけれど、父の表情から行きたくないとは言えない雰囲気を2年生ながらに感じて、行ってみようと思いました

それは宿泊を伴う体験イベントで、車いすのテニス、バスケットボール、陸上競技を体験した村岡選手は、「競技そのものも楽しかったけれど、友だちができたことがなにより嬉しかった」と当時の心境を語った。

同世代の友だちと、初めて対等に遊ぶことができました。そこから、陸上をメインにやりながら、月に何回かはバスケもプレーするようになったんです。健常者の父が、自分でも車いす競技にチャレンジしていた姿も記憶に残っています

スポーツを始めて、大会にも出るようになって、村岡選手には大きな変化があったという。

たとえば小学校の運動会に競技用の車いすで走らせてもらったり、マラソン大会にも出たりとか、それまでは引け目を感じることばかりでしたが、自分も認めてもらえるんだということを感じるようになりました

チェアスキーだったら自由に動くことができる

スキーとの出会いも、陸上競技の仲間がスキーの体験会へ誘ってくれたことがきっかけだったという。年に何度か、そうしたイベントで滑っていた村岡選手は、次第にスキーの魅力に引き込まれていく。

車いすだと雪の上で見動きがとれなくなってしまうけれど、チェアスキーだったら自由に動くことができる。その感覚がすごく好きだったんです。スピード感や爽快感など、普段の生活では味わえない非日常も体験できるし、シーズンスポーツだから今しかできないという特別な感じもあります。次第に、イベントだけではなくプライベートでもスキーに行くようになりました

小学校3年生頃、福島県の会津高原にて

通う回数が増えるうちに知り合いも増えて、アルペンスキーのパラリンピアンだった方に、みんなと滑っているからおいでよ、と誘ってもらうようにもなったという。

フリースキーで楽しく滑っていたんですが、実は競技スキーに応用できるように、カービングターンなどの技術を指導していただいたことが後になってわかりました。当時はジュニアの選手が少なかったので、元気のよさそうな子がいるから滑らせてみようということだったんでしょう。中学2年生ぐらいから、パラリンピアンの方々の練習拠点で、“桃佳もあそこで滑ってきなよ”と、ポールが並んだ競技スキーのコースで滑らせてもらうようになりました

そして高校1年生のときに、村岡選手はジュニアの強化選手に選ばれる。

通っていた高校は私立の学校で、土曜日も授業がありました。そこで土曜日の午後に父の運転で埼玉の自宅から菅平の練習拠点に向かうという生活になりました。現地では父が一緒に滑って私のサポートをしてくれて、日曜日にまた父の運転で埼玉へ戻ることを毎週のように繰り返しました

悔しさが、平昌2018パラリンピックでの栄冠につながった

2014年、村岡選手は高校2年生でソチ2014パラリンピックに出場する。

小さい頃からの夢がパラリンピックに出ることで、まさかスキーで出るとは思わなかったけれど、夢が実現して少し舞い上がっていました。そして自分の競技が近づくにつれて、怖くなったんです。普段は山奥の誰も見ていない会場で競技をするのに、ソチではたくさんのカメラに追いかけられて、いろんな人に見られて……。そんな雰囲気に気圧されたというか、怖くて仕方がなかったです

村岡選手は3種目に出場して、最高順位は5位。ただし初めてのパラリンピックは、入賞の嬉しさよりも、悔しさが残ったという。

正直、自分の実力だとソチ2014パラリンピックでメダルが獲れるとは思っていなかったんです。でも他の選手と自分との差が見えて、いつも通りに滑れなかったもどかしさもあってすごく悔しかった。次のパラリンピックでは絶対にメダルを獲ろうと強く決意したので、私にとってはすごくいい経験ができた大会でしたね

刺激を受けた大学時代のアスリート仲間

次の平昌2018パラリンピックを目指す村岡選手は、高校卒業を控えて早稲田大学への進学を決める。早稲田大学ではスキー部へ入部することになるが、スキー部員は原則として寮で生活する。村岡選手を迎えるにあたって、寮のバリアフリー化が進められた。

押したり引いたりして開閉するドアが左右に開く自動ドアになったり、急勾配の坂にエレベータが備わったり、大学が施設を整えてくださいました。私自身もありがたいし、これから入学する方にとっても生活しやすい環境になるはずなので、嬉しく感じました

早稲田大学では、真剣に競技に取り組む学友の姿勢に、襟を正す思いだったという。

入学したのがスポーツ科学部だったので、周囲はアスリートが多かったんです。日々の生活を犠牲にして取り組む友人の背中を見て、負けていられないなと思いました。たとえば一緒にご飯を食べていても、減量や増量に取り組んでいる人はすごくストイックで、見習うことばかりなんです

夏は南半球でトレーニングを積むアルペンスキーの選手だけに、村岡選手の大学生活は多忙を極めた。

1年の半分ぐらい日本にいないこともあったので、半期でなるべく詰め込んで単位を取るとか、卒論も遠征先で寝ずに書いたりとか。でも海外のスキー場は規模が大きくて、雪質もいいので楽しいですね。バリアフリーは日本も進んできましたが、ゲレンデでちょっとした段差に出くわして困っているとおじさんがごく普通に押してくれたり、そういった温かさは、海外のほうが感じる機会は多いように感じます

学業と両立しながら挑んだ平昌2018パラリンピックで、村岡選手は大回転での金メダルをはじめ、計5つのメダルを獲得する。

絶対にメダルを獲るという気持ちだったので、プレッシャーはありました。でも2度目のパラリンピックということで、雰囲気はわかっていたのが大きかったですね

平昌2018パラリンピックの後に行われたワールドカップでも総合優勝を果たした村岡選手は、2019年の春に新たな道に進むことになる。トヨタ自動車への入社、早稲田大学大学院への進学、そしてパラ陸上への挑戦と、3つの新しい生活が同時に始まることになった。

第30回日本パラ陸上競技選手権大会(2019)にて

トヨタ自動車が“二刀流”への挑戦を応援してくれた

トヨタ自動車に所属することについて、「平昌での金メダルがきっかけだと思われがちですが、そういうわけではないんです」と、村岡選手は語った。

私が競技スキーに取り組み始めた中学生の頃から、アルペンスキーの先輩である森井大輝選手など、トヨタ自動車の方が気にかけてくださったんです。それこそ大学への進学や単位の取得まで相談に乗っていただいて、すごくお世話になりました。もうひとつ、陸上競技との二刀流に挑戦することを快く認めてくださったことも、トヨタ自動車に入社する大きなきっかけになりました。挑戦する姿勢が大事だから結果は求めない、と言っていただき、とても勇気づけられました

陸上競技への挑戦は、平昌2018パラリンピックの後で芽生えてきた気持ちだという。

以前は、“パラリンピックが自国で開催されるなんて羨ましいな”、くらいの気持ちだったんです。平昌2018パラリンピックに専念していましたから、自分がどうこうという気持ちはありませんでした。でも平昌2018パラリンピックが終わって、子どもの頃にやっていた陸上にもう一度取り組んでみたい気持ちと、少しでも可能性があるならチャレンジしてみたいという気持ちが沸き上がってきたんです。もうひとつ、平昌2018パラリンピック後のアルペンスキーのワールドカップで、“桃佳なら勝ってあたりまえ”という周囲の雰囲気の中でレースが続いたのがすごく辛くなったんです。泣きながらワールドカップのポイントを計算して眠れなかった夜もあります。正直、スキーから少し離れたいという気持ちもありました

そしてトヨタ自動車の協力もあり、岡山に練習拠点を置くワールドアスリートクラブで陸上競技に取り組むことになった。最初はウォーミングアップにもついて行けなかった村岡選手だったが、埼玉の自宅と岡山を行き来しながら練習に励み、2カ月後には100メートルの日本記録を更新する。

最初はがむしゃらについて行くだけで、記録が伸びたという実感はなかったんです。車いすの漕ぎ方を身につけるとか、基本しかやっていなかったので、日本記録は私にとっても、指導してくれた周囲の人にとっても想定外でした

想定外とは言うものの、2カ月で日本記録を出すあたりは天賦の才と、スキーで鍛えた体力の賜物だろう。

岡山に拠点を置くワールドアスリートクラブでの練習風景

背中を押してくれた森井大輝選手

順風満帆に思えた村岡選手であるけれど、20203月、東京2020パラリンピックの1年延期が発表される。2021年の夏の東京2020パラリンピックから北京2022パラリンピックまでは、わずか半年──。

すごく悩みましたね。北京を目指すのなら東京は諦めたほうがいいのか、と

悩みに悩んだ村岡選手の背中を押してくれたのは、前出の森井大輝選手だった。

両立は難しいのかと相談したら、桃佳なら大丈夫だよ、と声を掛けていただいたんです。そこで吹っ切れたので、今、二刀流に挑戦できているのは大輝さんのおかげですね

森井大輝選手とのツーショット

中学生だった無名の村岡選手に、「桃佳もあそこを滑ってきなよ」と声をかけ、今度は「桃佳なら大丈夫だよ」と力づける。車いすスポーツを勧めてくれたご尊父、車いす競技をともに楽しみ、スキーへといざなってくれた友人たち、そして尊敬できる森井選手という先輩。

こうした人々との出会いやサポートによって、スキーと陸上競技の二刀流という、村岡桃佳選手の類まれなチャレンジは現実のものとなっている。

(文・サトータケシ)

村岡桃佳|Muraoka Momoka

アルペンスキー(滑降、回転、大回転、スーパー大回転、スーパーコンビ)

陸上(100m400m

1997年、埼玉県生まれ。4歳のときに病気で下半身麻痺となり車いす生活となる。小学校3年時にチェアスキーと出会い、中学2年時に本格的に競技スキーを開始。ソチ2014パラリンピックで日本代表に選出され、大回転で5位入賞。平昌2018パラリンピックでは出場した5種目すべてでメダルを獲得。同年、紫綬褒章を受章。W杯でも総合優種。また、2019年世界選手権でも多数のメダルを獲得。同年、パラ陸上競技短距離に本格的に取り組み、現在100m T54クラスの日本記録保持者でもある。トヨタ自動車所属。趣味は読書やアニメ鑑賞。

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