「多様性のあるチームだからこそ正解に近づける」パラ陸上・鈴木朋樹 ―アスリートを支える人々―

2021.04.13

車いすマラソンで圧倒的な強さを見せる鈴木朋樹選手。飛躍の裏には「人と技術」が交差する物語があった。

表彰台にのぼり歓声やフラッシュを浴びるアスリートたち。その傍らには彼らを支える「人や技術」がある。バラエティに富んだサポーターはいかに集まり、どんな物語を生み出してきたのか。そこから未来への挑戦を可能にする「鍵」を探っていく。

「異次元」の強さを見せるパラ陸上界の期待の星

2020年1115日に行われた「大分車いすマラソン」で2位に442秒もの大差をつけて優勝したのが、東京2020パラリンピックの出場が内定している鈴木朋樹選手。この時の鈴木選手の走りを、大手紙のひとつは「異次元」と表現した。

生後8カ月で交通事故によって脊髄を損傷した鈴木選手は、小学生で車いす陸上と出会った。そして日本における第一人者となったいま、「関わってくださったすべての方に感謝したい」という言葉を口にする。競技を始めてからアスリートとして成長する過程で、どのような人との出会いがあったのだろうか。

競技中の修行者のような厳しい表情とはうってかわって穏やかな眼差しの鈴木選手は、ひとつひとつの言葉を丁寧に選びながら、理路整然と競技人生を振り返ってくれた。

勝つ喜びを覚えて覚醒した幼少期

車いす陸上を始めたきっかけは、4歳か5歳のときに、両親がスポーツをしたほうがいいと勧めてくれたことです。当時は千葉県の館山市に住んでいましたが、横浜に障害の子どもたちが集まって陸上やテニス、バスケをやるクラブチームがあったんですね。それまでは運動会でも健常者の友だちに毎回負けて悔しい思いをしていたんですけど、陸上で初めて勝つことができた。そこで勝つ喜びを覚えて、スポーツにのめりこんでいきました

当時、館山と横浜の間は高速道路が全線でつながっていたわけではなく、片道2時間ほどかかったという。

レースモデルに乗り始めた小学3年生の頃

レジェンド選手たちが後進をサポートするパラ陸上競技界の絆

クラブチームの練習が第二土曜日と第四土曜日だったので、月に二回は父が車を運転してくれて、往復4時間かけて横浜に連れて行ってくれました。その時に両親がそこまでしてスポーツをやらせたいと思っていなかったら、僕はここにいなかったと思います

そして小学生の時に、鈴木選手のその後の運命を決定づける人物と出会うことになる。ロンドン2012パラリンピックの車いすマラソンで5位入賞を果たし、現在は日本パラ陸上競技連盟の副理事長を務める花岡伸和さんだ。

確か小学校4年生か5年生だったと記憶しています。同じ千葉県に住んでいらっしゃるということで、僕の両親が練習を見ていただけないかというお話をさせていただいたことをきっかけに、交流を持たせていただくようになりました。現役のパラリンピアンだった花岡さんが必ずおっしゃっていたのが、これはあくまでアドバイスだから、という言葉です。こういう漕ぎ方がいいとか、こういうトレーニングがいいとアドバイスをしてくださるけれど、最終的に決めるのは自分だぞ、ということです。トライしてみて自分に合えば採り入れればいい、というメッセージは自分の中でとても大きかったです。花岡さんとの出会いがなければ、この道で食べて行こうとか、こうして仕事にするなんて考えなかったでしょうね。部活程度の気持ちで取り組んで、大人になったらスポーツから離れていたと思います

小学5年生での学校の運動会

両親のサポートで車いす陸上を始め、花岡氏との出会いで選手としての才能を開花させた鈴木選手が挫折を経験したのは、城西国際大学在学中のことだった。目標にしていたリオ2016パラリンピックへの出場権を逃したのだ。

リオの選考期間が終わってからいいタイムが出るようになって悔しい思いはしたんですけれど、自分の中で考えたんです。自国開催の東京2020パラリンピックを目指したい、だからリオから東京に目標を切り替えて、イチからやろうと決めました

そして大学卒業を間近に控えた20171月、鈴木選手はあっと驚くような行動力を見せる。北京2008パラリンピックの車いすマラソンで金メダルを獲得した、オーストラリアのクート・ファーンリー選手に“弟子入り”をしたのだ。

毎年1月にオーストラリアで大きな大会が開かれるんですが、大会の前にクート選手に一緒に練習をさせてくれないかとお願いをしたら、快く受け入れてくれたんです。ご自宅に招いてくださって、2週間ほど一緒に練習をした最後の日に、ステイすればいいと言ってくれました。一部屋空いているからそこに住めば英語の勉強もできるし、トレーニング環境も整っていると。金メダルを獲っていて、本を出版したりテレビの司会もするようなオーストラリアでは知名度の高い選手なんですが、彼からそんな言葉をかけてもらって、ものすごくモチベーションが上がりましたね

トヨタ自動車への入社が決まっていたためにオーストラリアを拠点にトレーニングを続けることはなかったものの、ライバルともいえる鈴木選手を受け入れたクート選手の度量の広さには驚かされる。

さらに翌年、鈴木選手はリオデジャネイロ2016パラリンピックの車いすマラソンと800mで金メダルを獲得したマルセル・フグ選手の門を叩く。

スイスのノットウィルという場所に、脊髄を損傷した人が入院する施設があって、そこに競技場も併設されていてマルセル選手の練習拠点になっています。スイスグランプリという陸上の国際大会の2週間ぐらい前に現地入りして、マルセル選手の調整方法だとか、チームがどういうシステムで動いているのかを見学させてもらいました。マルセル選手はポールさんというコーチと相談しながら、日々の体調やコンディションに合わせて柔軟にトレーニングを組み立てていましたね。やっぱりそうだよな、と改めて気付かされたことが多かったです

よりよい車いすを作りたい、そんな思いから進路を決めた

花岡選手、クート選手、そしてマルセル選手。鈴木選手は、競技生活の節目節目でレジェンドともいえる選手と出会い、成長を遂げてきた。ただし車いす陸上という競技は、練習方法を工夫するだけでは強くなれない。マラソンの下り坂では速度が80km/hを超えるため、優れた車いすがなければ、どれだけ体力を強化しても宝の持ち腐れとなってしまうのだ。

そこで車いすという道具の仕組みを理解し、速く走れるように開発する取り組みが不可欠だ。鈴木選手は学生時代より国内車いすメーカーとともに競技用車いすの開発を行ってきたが、大学の卒業を控えた時期に、さらに踏み込んで車いすを開発できるような進路を考えたという。

進路を決めるにあたってまず考えたのは、陸上は海外遠征が多いので海外に行ける環境が整っていること。そして、もっといい競技用の車いすの開発に自分も携わりたいということでした。その時にトヨタ自動車から声をかけていただいて、今があります

では、トヨタに入社してからの車いす開発は、どのように進められたのだろうか。

入社した時に用具開発のチームを作っていただいて、これまでお願いしていた車いすメーカーさんとも連携しながら開発を行っています。たとえば僕が競技用の車いすに乗って、車両用の風洞実験室に入ってさまざまなアタッチメントを試しながら数値を計測するようなこともやっています。風洞実験室では、30km/hや50km/hの速度だとこんなふうに風を受けるのかということがわかって、これはトヨタ自動車に所属しているからこその経験です。ありがたいと思っています

東京、パリ、そしてロス
現役生活を終えた後のロードマップ

2021年824日に予定される東京2020パラリンピックの開会式を控えた今、鈴木選手の一日は朝 4時の起床で始まる。熱めのシャワーで目を覚まし、豆を挽いてコーヒーを淹れる。その後、1時間半ほどかけてストレッチを行い、9時から練習開始。主な練習場所は夢の島陸上競技場で、11時まで約2時間のトラック練習に取り組む。

昼食を摂った後は14時頃から自宅でストレッチや体幹トレーニング。コロナ禍にあって、外出は極力控えているという。

興味深いのは、こうした一連の練習にひとりで取り組むことだ。マルセル選手のように、コーチと二人三脚でトレーニングを積むという考えはないのだろうか。

誰かとずっと一緒に練習するというのがちょっと苦手なタイプなので(笑)。ただし練習をサポートしてくれるチームはしっかりとしています。週に一度は江戸川大学の守屋(志保)教授に来ていただいています。守屋先生はもともとバスケットボールのプロ選手だった方で、トップアスリートの心構えのようなものを学ばせていただいてます。大会の前には、最大酸素摂取量などのデータを桐蔭横浜大学の桜井(智野風)教授に送ります。現在のコンディションやトレーニングの成果などを見ていただき、そのデータを基にトレーニングメニューを作っていただいています。また、身体のメインテナンスをおふたりのトレーナーの方にお願いしているので、僕を含めた計5名がひとつのチームということになります

チームの仲間を集めるにあたって、鈴木選手は大事にしていたことがあるという。それは、多様性のあるメンバーを集めることだった。

バスケだったり卓球だったり、さまざまな経験を積んできた方の意見を聞きたいと思ったんです。車いす陸上という競技は、まだトレーニング方法が確立していません。用具開発を含めて、いろいろな方と意見を出し合いながら正解に近づきたいと思っています

東京2020パラリンピックの本番では、800m1500mのトラック競技を走り、最終日に車いすマラソンが待ち受ける。体力的には厳しいが、そこに向けたトレーニングは積んているし、イメージも出来上がっている。

さらに──。東京のその先のキャリアも、鈴木選手の中ではロードマップが出来上がっている。

東京でなんとしてもメダルを取り、2024年のパリで金、その次のロスで連覇することを考えながら、トレーニングを行っています。そして、ロスが終われば代表選手としての活動から離れてもいいかもしれない、という考えも頭の中にあります。日本ではパラ陸上の認知が上がっていない現実があるので、第一線から退いた後は裾野を広げる役目を担う。具体的には、障害を負って車いす生活になった方がスポーツを楽しめる機会を提供できればいいと考えています。その時に、僕のチームの測定結果やトレーニングメニューを活用して、たとえばジュニアのクラブチームを作ってパラ陸上を楽しんでもらい、その中からパラリンピックを目指してメダルを狙う人が出てくる。そんなことを思い描いています

ご両親、レジェンド選手たち、支えてくれるチームの面々、さらには用具を開発するエンジニアたち。こうしたサポーターから受け取った宝物を、鈴木選手は次の世代へ継承しようと考えている。車いす陸上というスポーツの文化が、日本で生まれつつあるのだ。

(文・サトータケシ)

鈴木朋樹|Suzuki Tomoki

陸上(トラック/400m800m1500m/マラソン)

1994年、千葉県生まれ。生後8か月の頃に交通事故で脊髄を損傷し、中学から本格的に陸上の車いす競技を開始。トラックレースが中心だったが近年はマラソンでも好成績をおさめている。2019年のロンドンマラソンで3位に入り、東京2020パラリンピックの日本代表に内定。現在は800m、1500mとトラック種目での出場権獲得もめざしている。トヨタ自動車所属。趣味はキャンプ。

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