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米国と歩んだ70年 殿堂5人が受け継いだもの

2026.09.25

米国自動車殿堂に、豊田章男会長が加わった。トヨタからは5人目だ。米国に学び、米国に鍛えられてきた5人の軌跡から、トヨタが受け継いできたものをたどる。

ヘンリー・フォード、フェルディナント・ポルシェ、アイルトン・セナ。300を超える個人・団体の名が刻まれた米国自動車殿堂に、豊田章男会長が2026年のメンバーとして迎え入れられた。

米国殿堂博物館に展示されているトヨタコーナー。三橋仁明 / N-RAK PHOTO AGENCY

しかし、今回の受賞を点で捉えると、その意味を十分に読み取れない。先に殿堂入りしたのは、豊田喜一郎、豊田英二、大野耐一、豊田章一郎。豊田会長を加えた5人の歩みをたどり、トヨタが米国とともに歩んできた約70年の歴史を振り返ると、今回の受賞の意義がより深く分かるはずだ。

殿堂入りメンバーの名が刻まれた石碑。三橋仁明 / N-RAK PHOTO AGENCY

豊田喜一郎 創業の着想を得る

1921年、まだトヨタの自動車事業が始まる前の時代。大学卒業後間もない27歳の喜一郎は、義兄の利三郎らとともに、横浜から東洋汽船の客船「春洋丸」に乗り込んだ。父・佐吉の命を受け、先進国の産業の実態を確かめるべく欧米視察へ向かった。2週間の船旅を経てサンフランシスコに着いた一行は、米国内の各地を巡った。当時は、世界初の大衆車、T型フォードが広く普及した時代だった。

喜一郎が殿堂入りを果たした2018年、孫の豊田章男会長は、1920年代の米国で街中を多くのクルマが走る光景に喜一郎が大きな影響を受け、「国産車をつくり、日本に自動車産業を興す」という創業の志のきっかけになったと語っている。

豊田喜一郎の米殿堂博物館でのパネル

その後、喜一郎は実際に仲間とともにクルマづくりを始めたが、目標にしたのも米国だった。終戦直後の1945年には「3年でアメリカに追いつけ。そうでないと日本の自動車産業は成り立たんぞ」と社員を鼓舞した。

米国渡航時の写真は、殿堂博物館にも展示されている

喜一郎が名付け親となった初代クラウンは、1958年に米国で販売を始めた。トヨタ初の本格的な輸出乗用車だったが、挑戦は順風満帆ではなかった。特に、高速道路を長く走る米国では、出力不足が大きく、苦情が殺到した。

ロサンゼルスに陸揚げされるクラウンのサンプルカー

豊田章男会長は今回の殿堂入りスピーチで、父・章一郎が当時、クラウンを運転してデトロイトを訪れた時のエピソードを紹介している。フォード本社の前にクルマを停め、誇らしく写真を撮った。ところが、その後高速道路を走った途端、「その自信は吹き飛んだ」という。「あの頃のクラウンは、時速60マイル出すのもやっとでした。ほかのクルマすべてに追い抜かれただけではありません。あの堂々たるクラウンを高速道路へ合流させるだけの速度を得るために、父は下り坂の進入路しか使えませんでした」とのことだ。

夢を与えた米国は、同時にクルマづくりの厳しさを教える場所でもあった。

喜一郎殿堂入り時の“インタビュー”映像(英語のみ)
喜一郎の殿堂入りに際して、豊田章男会長は一人二役でインタビューを実施している

豊田英二 フォードで学び、NUMMIを決断

戦後間もない1950年。トヨタ自動車工業の常務だった豊田英二は、フォードとの技術提携交渉のため渡米した。朝鮮戦争の勃発で提携は実現しなかったが、英二はフォードで研修を受け、多くの生産拠点を視察する機会を得た。

『決断 豊田英二 私の履歴書』(日本経済新聞社、1985年)で、英二は「技術面では大きな差はなかったと思う」とする一方、「フォードの生産は日産8000台に対し、トヨタはわずか40台。企業規模は月とスッポン」と述懐している。

英二のフォード研修時の様子

英二は米国の圧倒的な生産規模を目の当たりにしながらも、その方式をそのまま日本へ持ち込もうとはしなかった。市場規模も資本力も異なる日本では、大量の在庫を抱えることはできない。米国の生産現場から学びながら、日本に合ったものづくりを模索した。その試行錯誤は、大野耐一らが現場で磨き上げるトヨタ生産方式(TPS)へとつながっていく。

それから30年。1980年、日本の自動車生産は1000万台を超え、米国を抜いて世界一となった。トヨタの輸出も拡大し、最大市場である米国との間では貿易摩擦が激しさを増していた。トヨタ自動車工業の社長となっていた英二は、対立ではなく、現地でともにつくる道を探る。

まず、かつて研修で縁のあったフォードとの提携を模索したが、車種などで折り合わず白紙に戻った。一方、1981年末からはゼネラル・モーターズ(GM)のロジャー・スミス会長と交渉を進め、カリフォルニア州フリモントの遊休工場を活用する合弁事業へと結実した。会長になった後、1983年に覚書へ調印し、1984年2月、New United Motor Manufacturing(NUMMI)が設立された。

英二は同年4月の記者会見で、「競争と協調の精神こそが世界経済の発展を支える基本」と語り、合弁事業を「日米産業協力のモデル」として成功させる決意を示した。1950年にフォードから学んだ英二は、30年以上を経て、米国でクルマをつくる側になった。

豊田英二の米殿堂博物館でのパネル

そして英二と同時代、現場でものづくりの仕組みを磨き上げたのが大野耐一だった。

大野耐一 米国式スーパーから着想を得たTPS

大野は著書『トヨタ生産方式―脱規模の経営をめざして』(ダイヤモンド社、1978年)で、喜一郎が終戦の日に発した「3年でアメリカに追いつけ」という言葉を紹介している。米国に追いつくには、まず米国を知らなければならない。当時、日米の生産性には大きな開きがあった。大野は、その差を埋めるには、日本の生産現場に残る大きなムダをなくさなければならないと考えた。

少ない種類を大量につくる米国式の量産方式に対し、日本で必要とされたのは、多くの車種を少ない量でも安くつくる方法だった。自動車王国・米国から品質管理や生産管理を学びながらも、その技術が米国の市場や風土から生まれたものであることを踏まえ、日本の条件に合う生産システムをつくらなければならない。大野はそう考えた。

ヒントの一つが、米国のスーパーマーケットだった。顧客が必要な品物を、必要な時に、必要な量だけ取り、店は売れた分だけを補充する。生産ラインに置き換えれば、後工程が前工程から必要な部品を必要な時に必要な量だけ引き取り、前工程は引き取られた分だけを補充することになる。

かんばん方式

大野は1956年に米国を訪れ、GMやフォードなどの生産現場とともに、スーパーマーケットを実際に視察。「わが意を得たり」と感じたという。

その後、試行錯誤を重ねながら体系化していったTPSは、後に「リーン生産方式」として米国を含む世界の製造現場が学ぶ対象となった。

大野耐一の米殿堂博物館でのパネル

豊田章一郎 米国社会へ根を下ろす

英二が決断したNUMMIを、米国現地生産の確かな足場へ育て、その経験を北米全体へ広げる。その役割を担ったのが豊田章一郎だった。1982年、トヨタ自動車工業とトヨタ自動車販売の合併で誕生したトヨタ自動車の初代社長に就任した。

豊田章一郎の米殿堂博物館でのパネル

章一郎は日経新聞「私の履歴書」で、NUMMI最大の課題は、トヨタのやり方が米国の生産システムに慣れた現地の働き手に受け入れられるかどうかだったと振り返っている。この課題解決のため、NUMMIでは労使懇談会やオープンな職場づくりを進めた。現地従業員の日本での教育訓練や現地指導に取り組んだ。その結果、トヨタのものづくりは、現地でも徐々に受け入れられ、働く人々の意欲と生産性の向上につながったという。

NUMMIで得た経験を踏まえ、トヨタは1985年、北米での単独進出を決断した。米国ではケンタッキー州ジョージタウン、カナダではオンタリオ州ケンブリッジを選び、1988年にそれぞれカムリとカローラの生産を開始した。章一郎が目指したのは、生産台数を増やすことだけではない。現地の経済と社会の発展に貢献し、「良き企業市民」としての役割を果たすことだった。

その考えは、米国のサプライヤー支援にも広がった。1992年にはケンタッキーにトヨタ・サプライヤー・サポート・センター(TSSC)を設立。在庫削減や生産リードタイムの短縮など、トヨタのものづくりの知見を現地企業へ伝えた。目的は取引先の強化にとどまらず、米国で自動車産業が健全に発展し、安くて良いものをつくれるよう役立つことにあった。

2005年には、自身が会長を務めた愛知万博では、資金面から参加に消極的だった米国との交渉に尽力。米国の誘致にこぎつけた。現地に溶け込み、ネットワークを築いていたからできた成果だった。

米国工場建設地を発表する豊田章一郎(写真中央)

豊田章男 「トヨタらしさ」取り戻す闘い

こうして、米国で徐々に受け入れられていったトヨタ。しかし、規模が拡大するにつれ、ほころびも露呈する。5人目の殿堂入りメンバーである豊田章男会長が、社長就任直後、米国で大規模リコール問題に直面し、2010年には米議会の公聴会で証言したのは、式典当日の記事で紹介した通りだ。

公聴会直後に出演したCNNの「Larry King Live」で、豊田会長は、トヨタは本来ものづくりの会社でありながら、「お金をつくっている」と言われるような要素が組織内にあった可能性を認めた。事業の成長に人材育成が追いついていなかったことにも触れ、「お客様が喜んで乗ってくださる、もっといいクルマをつくる」という原点に戻る決意を語った。

その後、豊田会長は、社長としての14年を「トヨタらしさを取り戻す闘い」だったと振り返っている。企画や生産など、機能ごとに分かれていた組織を、小型車や商用車といったクルマを軸に再編したカンパニー制。低重心化や剛性向上など、クルマの基本性能を高めるトヨタ・ニュー・グローバル・アーキテクチャー(TNGA)。世界一ではなく「まちいちばん」のクルマ屋を目指し、各地域のニーズに合う商品を届ける地域軸の経営。

米国での商品も変わっていった。カローラなどロングセラーブランドの競争力を磨き、スポーツカーを復活させ、GRブランドを導入。電動車でも一つの技術に限定せず、多様な選択肢を用意し、地域やお客様のニーズに応えるラインアップを整えてきた。

米国自動車殿堂による豊田会長の紹介で強調されたのも、販売台数の数字ではない。GRスープラやGRヤリス、モリゾウとしてのモータースポーツ活動が挙げられ、「走りへの情熱とパフォーマンスを中心に、トヨタの文化的アイデンティティを再形成した」と評価されている。

米国で、これからも鍛え続ける

創業の着想、現地化の決断、TPS、企業市民としての溶け込み、商品軸、地域軸。今のトヨタを支える重要な要素は、米国抜きには語れない。

そして、殿堂が豊田会長の紹介で挙げたモータースポーツへの情熱も、今のトヨタと米国を象徴している。

トヨタは2000年に米国最大のモータースポーツ、NASCARに参戦。長く米国自動車メーカー以外に門戸を開いてはいなかったが、トヨタは地域での人づくりやクルマづくり、販売を続けてきたことで、米国社会の一市民として参戦を認められた。その後もクルマを磨いて参戦を続け、今では強豪の一角に名を連ねる。昨年11月には、静岡県の富士スピードウェイで行われたスーパー耐久最終戦でNASCAR参戦車両のデモランが行われ、豊田会長もフォードのピックアップトラックのステアリングを握り、助手席に乗せたジョージ・グラス駐日米大使とともにコース上に姿を見せた。

富士スピードウェイで実施されたNASCARのデモラン

米国で地歩を築き、認められ、競い合い、人とクルマを鍛え続けていく。モータースポーツのように、トヨタはこれからも米国の仲間たちと切磋琢磨していくだろう。

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