自動車研究家の山本シンヤ氏による寄稿記事。富士スピードウェイでのNASCARデモランの実現に、運命的な"何か"を感じているというそのワケは?
11月16日、富士スピードウェイで行われたスーパー耐久最終戦の決勝日にNASCARのデモランが行われた。
この模様はすでにトヨタイムズでも発信済みだが、筆者(山本シンヤ)はその実現によって生まれた「60年越しのストーリー」を皆さんにお伝えしたい。
トヨタのモータースポーツ参戦は1957年、走行全距離10,000マイルという世界最長の自動車競技で当時最も過酷と言われた「豪州一周モービルガス・ラリー」にトヨペット クラウン デラックスで参戦したことから始まった。
参加台数102台中50台がリタイヤ・失格等で姿を消す過酷なステージながら完走を遂げ、トヨタの技術を世界的に証明したが、目的はそれだけではなかった。
当時日本とオーストラリアとの国交が再開されたばかりで、このラリーは日豪親善民間外交の一端も担っていたそうだ。
実は今回のNASCARのデモランも同じような気がしている。今回の首謀者である豊田章男氏はメディアの前でその経緯をこう語った。
「来年、アメリカは建国250年を迎えます。そんな中、先日アメリカ大使館に行ったとき、日本とアメリカの産業界のみならず、文化面やスポーツ面で交流を考える中で、『モータースポーツもありますよ』と提案しました。すると(ジョージ・)グラス大使は『それは名案ですね』と大喜びでした。アメリカを代表するモータースポーツと言えばNASCARですが、そんな話をしている中で『来年の富士24時間にNASCARを走らせる』で盛り上がりました。ただ、いきなりだとさすがに厳しいので『まずはトライアルをしましょう』というのが今回のデモランになります」
ちなみに、このやり取りがあったのは9月で、そこから僅か2カ月という非常に短いスパンでの実現には驚きしかない。豊田氏はこの準備期間にNASCARについていろいろ調べたと言うが、その中である“事実”を知った。それは「富士スピードウェイは、元々NASCARを開催するために生まれたサーキットだった」ということだ。
富士スピードウェイの前身となるのが、1963年に生まれた「日本ナスカー株式会社」だ。NASCARと技術提携を行い、日本を含む極東地域全体のNASCAR方式レースの独占開催権を獲得。そして、富士山麓にオーバルコースの建設計画が発表された。
壮大な計画は動き始めるも、資金繰りの問題に加えてトップ交代による方針変更から、なんと僅か2年で契約を白紙撤回……。その後、1965年に日本ナスカー株式会社は富士スピードウェイ株式会社に商号が変更された。
コースはロードコースに変更され1965年12月に完成、1966年1月から営業が開始された。
コースは1.6㎞のストレートを経て30度バンクを伴う1コーナーからS字、100R、ヘアピン、そして最終コーナーと続くシンプルなレイアウトの6㎞コースだった。
世界に類を見ない30度バンクを持つロードコースとして数々の名勝負を生んだが、1974年6月2日のGC(富士グランチャンピオン)シリーズ第2戦(富士グラン300㎞)の死傷事故により閉鎖。その後は放置で荒れ放題だったが、2005年のリニューアルを機に一部の路面が「30度バンクメモリアルパーク」として整備され、現在に至る。
そもそも、ロードコースなのになぜ30度バンクが残されたのだろうか? これは最初の計画図(=オーバルコース)の名残である。
当時の有識者の意見は「バンクではなくフラットなコーナーにすべき」だったそうだが、それを押し切ってまで30度バンクを採用したのは、先人の中に「それでも、いつかNASCARをここで走らせたい!!」という強い想いがあったのではないかと筆者は分析している。
(ちなみに当時の富士スピードウェイの完成予想図には、ロードコースとオーバルどちらにも使えるようなレイアウト[30度バンクと最終コーナーをつなぐ裏ストレート]が描かれていた)
ちなみにNASCARは1996/1997年に鈴鹿サーキット、1998/1999年にツインリンクもてぎ(現モビリティリゾートもてぎ)で開催されているが、富士スピードウェイでは過去に日本インディや日本Can-Amとアメリカ発祥のモータースポーツの“日本版”が開催されたことはあっても、なぜかNASCARは1度も開催されたことがない。
厳密に言えばイベント(TGRF[TOYOTA GAZOO Racing FESTIVAL]など)で走行したことはあるかもしれないが、元々NASCARのためにつくられたコースの名残である30度バンクを走った記録はない。
この歴史を知った豊田氏はピンとひらめいた。それは「日本でNASCARを走らせたい」と設立された日本ナスカー株式会社の想いと、その後ロードコースに変更するもオーバルの名残りである30度バンクを採用した人たちが成し遂げられなかった想いを、60年越しに実現させること……。
さすがに走行はできないが、NASCARにあの30度バンクの路面を踏み締めてもらおうと考えたのである。
「NASCAR関係者には、富士スピードウェイにバンクが存在した事実と日本が過去にNASCARを誘致しようとした“歴史”を知ってもらえるし、日本のレースファンには来年60周年を迎える富士スピードウェイを振り返るだけでなくNASCARを知る“キッカケ”にもなる。これも私が考えた『モータースポーツを活用したカーガイとしての日米交流』の1つですね」
何事にもストーリーを大事にする豊田氏らしい考えだ。ちなみにこのアイデアが浮かんだのは、なんと予選前日にあたる金曜日の午前中……。専有走行を終えてピット裏のテントで筆者と談笑していたときだった。
豊田氏は即座にSTMO(スーパー耐久未来機構)の“番頭”である加藤俊行氏(写真左奥)、富士スピードウェイ社長の酒井良氏(同手前)、そして「モリゾウカレーの試食に来た」という副社長の中嶋裕樹氏(同左)を招集し、緊急会議をスタート。
豊田氏が上記の概要を説明すると、みんな「それはナイスアイデア、すぐにやりましょう!!」と各々が即座に行動を始めた。
もちろん「NASCAR側は本当に協力してくれるのか?」「マシンは何台持ってこられるのか?」「そもそも30度バンクにNASCARを持ち込めるのか?」「短時間で撮影できるのか?」といった心配事がいくつかあったが、事前準備により全てクリアに。
しかし、その日はNASCARチームが朝から東京見物に出かけて富士にはいないため、撮影決行は予選のある土曜日の朝に決定した。
当日、30度バンクに向かうと、すでに撮影のためにマシンの配置作業が行われていた。ピットからローダーで運ばれた6台のマシンは日米スタッフによる人海戦術により移動。フォトグラファー・三橋仁明氏の指示で微調整を行いながら配置を行っていく。
バンク内でマシン移動させるのはなかなかの体力仕事だが、NASCARチームもこの撮影にはとても協力的で三橋氏の細かいリクエストに対しても嫌な顔せずに対応してくれる。
もちろん彼らは我々の予想していた通り30度バンクに興味津々で、写真を撮影したりバンクの上までを駆け上ったりと何だかとても楽しそう。
準備が終わるタイミングで豊田氏がセンチュリーSUV GRMNで颯爽と登場。そして撮影した写真がこれである。
秋晴れの青空と紅葉のコントラストが素晴らしい背景をバックに、歴史を感じる趣の30度バンクと最新のNASCARとの60年の時を超えた共演は大成功に終わった。
オマケでセンチュリーSUV GRMNがペースカーのように見えるカットも撮影したが、迫力もサイズもNASCARに負けておらず。満足げな豊田氏は嬉しそうに語ってくれた。
「撮影しているとき、『富士スピードウェイに、やっとNASACARが来た』『やっと30度バンクに並んでくれた』ととても感動しました。そして、日本ナスカー株式会社を立ち上げ、NASCARの日本開催を夢見た先人たちも喜んでくれるといいな」
富士スピードウェイは2000年からトヨタ傘下だが、今回の行動は間接的ながら創業家の末裔として「先人の労に報い、想いを引き継いで、彼らが不本意ながらやりきれなかったことをきちんと完成させたい」という責任感だったのかな……と思う所も。
今回のNASCARデモランが富士スピードウェイで実現したのはタイミング的な問題だけではなく、実は過去の歴史を含めた運命的な“何か”に呼び寄せられた結果だと筆者は考えている。
つまり今回のデモランは“偶然”ではなく“必然”だったということだ。それも過去と未来がひょんなキッカケでつながる、これも豊田氏らしいリアルストーリーだと感じた。
豊田氏がそこまでNASCARにこだわる理由は何かあるのだろうか?
「僕は初めてカムリを“アメリカ車”として扱ってくれたときに、NASCARの創始者ファミリーであるフランス家の方に会いに行きました。それ以降NASCARには間接的ですが、定期的に応援しています」
撮影後にNASCARスタッフと談笑する豊田氏はさらにひらめいた。「この写真をパネルにしてグラスさんとNASCARのジム・フランスCEOにプレゼントしよう。たぶん驚いてくれるんじゃないかな」と。
この写真はNASCARの歴史の中でもかなり貴重な1枚になることは間違いないだろう。そして、これをキッカケに日米のモータースポーツ交流がより活発になり、ドジャース・大谷翔平のような日本人とアメリカ人どちらからも憧れられるスーパースターが現れることにも期待したい所だ。
今回、そんなNASCARを受け入れたスーパー耐久は、日本の参加型レースの最高峰として「来るもの拒まず」をモットーにこれまでさまざまな参戦クラスを創設してきた。
その1つが開発車両の参戦を可能にする「ST-Qクラス(2021年~)」であり、もう1つが日本自動車会議所とのNASCARのデモラン実現に合わせて設定された、日米の文化交流を促進する「ST-USAクラス(2025年~)」である。
この2つの取り組みが「モータースポーツの未来」の事例として高く評価され、STMOは2025-2026日本カー・オブ・ザ・イヤーの実行委員会特別賞を受賞。
STMOと日本自動車会議所、どちらにも役割を持っている豊田氏への“共感”が多くの人に伝わった結果と言えるだろう。
それはイコール、モータースポーツが文化になり始めた“兆し”と言ってもいいのかもしれない。