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"ずっとそばで見てきた人間"が語った豊田章男の闘い 取り戻そうとした"優しい心"

2024.10.16

篤志家の「利他の精神」と「人間愛」で発展してきた日本の更生保護。制度75周年の記念講演にトヨタの早川茂副会長が登壇。「人間と人間のぶつかり合い」だった豊田章男改革について話した。

豊田章男改革とは

ご紹介いただきましたトヨタ自動車の早川でございます。本日は、更生保護制度施行75周年を記念する全国大会にお招きいただき、誠にありがとうございます。

当初、この講演は、弊社会長の豊田章男にご依頼をいただきました。豊田は「保護司の皆様のお役に立てるのであれば、是非とも、自分がお伺いし、直接お話しさせていただきたい」。そう申しておりましたが、残念ながら、スケジュールの調整が、どうしてもかないませんでした。

誠に恐縮ではございますが、本日は、私の方から、2009年に豊田章男が社長に就任して以降、どのような想いと行動で、トヨタ自動車の変革に取り組んできたのかについて、お話しさせていただきます。

ご依頼をいただいたときの講演のタイトルは「トヨタ自動車の挑戦」でございましたが、私から見れば、社長就任から15年に及ぶ改革は、「トヨタ自動車としての挑戦」ではなかったと思います。

豊田章男という一人の人間がトヨタという巨大組織にぶつかっていく。人間の感情や心をむき出しにして、世間の常識とかけ離れた組織の論理を壊していく。

まさに「闘い」の中で、組織に埋没していた人たちが、自分たちが本当にやりたいことややるべきことに気づき、少しずつ心をひらいていく。

そんな人間と人間のぶつかり合い。それこそが豊田章男改革だったと思います。

そうした想いを込めて、本日のタイトルを「豊田章男の挑戦 トヨタらしさを取り戻す闘い」とさせていただきました。

まず、私自身の経歴について、簡単にご紹介をさせていただきます。

1977年にトヨタに入社以来、主に渉外・広報の分野の仕事、地域では北米での仕事に従事してまいりました。

会社の経歴で言うと、こういうことになりますが、それとは別に、いま、私がこの場に立たせていただいておりますのは、豊田章男の闘いをずっとそばで見てきた人間であるからだと思っております。

本日は、トヨタ自動車の副会長ではなく、そんな一人の人間として、自分の目で見て、心で感じてきたことをお話しさせていただきますので、よろしくお願い申し上げます。

トヨタ創業の原点

トヨタ自動車は、1937年、今から87年前に誕生いたしました。

創業者は豊田喜一郎。会長の豊田章男の祖父でございます。

「ただ、自動車をつくるのではない。日本人の頭と腕で、日本に自動車工業をつくらねばならない」。この想いを胸に、喜一郎は、仲間とともに、自動車産業に挑戦いたしました。

技術もお金もなく、「日本人には自動車はつくれない」と言われた時代であります。

それでも、「誰かがやらなければならない。ならば、自分たちが、その誰かになる」。その一心で、喜一郎は、仲間たちとともに困難に立ち向かっていきました。まさに、日本の未来を賭けた闘いでした。

しかし、会社設立から10年少したった1950年。戦後の不況の中でトヨタ自動車は倒産の危機に直面し、会社と組合が真っ向から対立する労働争議が起こります。

喜一郎は、会社を立て直すため、断腸の思いで、家族とも言える従業員1,600人を解雇することを決断。その責任をとり、社長を辞任いたしました。

その2年後、喜一郎は志半ばで、この世を去ることになりました。本当に無念だったと思います。

「日本に自動車工業をつくらねばならない」。この想いは、豊田英二、豊田章一郎をはじめ、創業の苦労をともにした仲間たちに引き継がれ、トヨタは日本を代表する自動車会社へと成長いたしました。

豊田章男の社長就任

その後、トヨタは、海外を中心に販売を伸ばし、ついにはアメリカのゼネラルモーターズを抜いて、台数規模で世界一の自動車メーカーとなります。

しかし、20089月、アメリカの投資銀行、リーマン・ブラザーズの経営破綻をきっかけに、世界的な金融危機と不況が起こりました。

このリーマン・ショックの影響で、トヨタは2兆円を超える利益を一瞬にして失い、創業以来、初めて赤字に転落いたしました。

当時、世界には、グローバル競争を勝ち抜くためには、何よりも規模が重要だという風潮がありました。

そんな中で、当時のトヨタ自動車は「いいクルマをつくる」ことよりも、「たくさんクルマをつくる」こと、「規模で世界一になる」ことを目標とするようになっていきました。

そして、スポーツカーや商用車といった「数が出ない、儲からないクルマ」はなくなり、商品ラインナップは「トヨタがつくりたいクルマ」が並ぶ偏ったものになっていったのです。

そこには「つくれば売れる」というメーカーのエゴ、傲慢さがあったと思います。「お客様不在」「数値目標で引っ張る経営」の結果、トヨタの企業体質は、どんどん弱くなっていきました。

これまで、どんな危機に直面しても黒字で乗り越えてきた会社がリーマン・ショックのときには、創業以来はじめて赤字に転落することになったわけです。

自動車は、素材、部品、販売、物流、中古車、金融など、すそ野の広い産業です。また、世界各国で事業を展開しているグローバル産業でもあります。

トヨタの赤字転落は、関係する多くの国や産業に、多大なご迷惑をおかけすることになりました。

当時のトヨタは「日本に自動車産業をつくる」という創業の原点を忘れ、「クルマ屋」としての本分を見失っていたのだと思います。

そんな状況の中で、社長に就任したのが、創業家出身の豊田章男でございました。

豊田は、社長に就任する以前から、トヨタ自動車の現状に強い危機感を持っておりました。

会社を立て直すためには、何よりも、商品であるクルマを立て直さなければならない。エンジニアではない自分が商品を変えるためには、エンジニアとの共通言語、すなわち、運転技術を身につけなければならない。

そう考えた豊田は、「伝説のテストドライバー」と呼ばれた成瀬弘さんに弟子入りし、厳しい運転訓練を続けてきました。

そんな豊田が社長就任と同時に掲げた経営ビジョンがございます。たったひと言。「もっといいクルマをつくろうよ」。それだけでした。

豊田は、台数や収益といった数値目標を口にすることは一切ありませんでした。

「今度の社長は数値目標も言えないのか」「もっと具体的なスペックを言ってもらわないと仕事にならない」「レースに参加するなんてボンボンの道楽だ」

社内からも、社外からも聞こえてくるのは、批判の声ばかりでございました。

当時を振り返り、豊田はこう申しております。「私は誰からも望まれない社長だった」。

そんな中、私たちは、リーマン・ショックを上回る「会社存亡の危機」に直面することになります。

2009年夏、アメリカで発生したレクサス車の事故をきっかけに世界中で延べ1,000万台以上のリコールを実施するという品質問題が発生いたしました。

トヨタ自動車の信頼は崩れ去り、社長の豊田は「しんがり役」として、アメリカの公聴会に行くことになりました。

こちらの映像をご覧ください。

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