「トヨタ・セリカが復活する!?」こんな噂が飛び交っている。噂の出どころは、トヨタイムズでも取り上げている豊田章男会長の発言だった。
ヨーロッパのメーカー以外で初という快挙
トヨタが初めて世に出したフルタイム4WDでありながら、なぜここまで完成度の高いモデルが生まれたのか。答えは、2年後に判明した。
1988年からWRCに参戦したST165は、1989年のオーストラリアラリーで、ユハ・カンクネンのドライブで初優勝を飾ったのだ。トヨタにとっても3年ぶりとなる表彰台の頂点だった。
つまり、WRCでの勝利を目指して開発したモデルだったからこそ、ST165は高いパフォーマンスを発揮したのだ。
ヨーロッパにおけるWRCは、F1に勝るとも劣らない人気と知名度を誇る。この最高峰の戦いで、参戦わずか2年目のST165が優勝したことは、本場のモータースポーツ関係者を驚かせた。
1990年のシーズンは優勝候補の一角とみなされ、結果も残した。5戦で勝利を収め、チームに与えられるマニュファクチャラーズタイトルは逃したものの、カルロス・サインツがドライバーズタイトルを獲得したのだ。
1991年、1992年のシーズンも好調を維持。1992年にはドライバーズタイトルに輝いたものの、悲願のマニュファクチャラーズタイトルにはあと一歩で届かなかった。
1992年のトピックの一つに、ST165が次期型のST185へ移行したことがあげられる。WRCにさきがけて、セリカの市販モデルは1989年にフルモデルチェンジを受け、新型に移行している。
ST185は、ST165の基本的な構造は踏襲しつつ、エンジンのパワーアップや足まわりの強化を図っている。
これを受けて、より戦闘能力の高いST185がWRCに参戦することになる。
そして迎えた1993年。ST185のステアリングホイールは、ユハ・カンクネンに委ねられた。
第4戦のサファリラリーで優勝して勢いに乗ると、カンクネンは確実に勝利を重ねる。第10戦のオーストラリアラリーで6勝目を挙げ、残り3戦を待たずにトヨタに念願のマニュファクチャラーズタイトルをもたらした。オーストラリアラリーは、奇しくもST165とカンクネンのコンビで制した地だった。
1973年にWRCが制定されて以来、ヨーロッパ以外のメーカーがマニュファクチャラーズタイトルを獲得したのは、トヨタが初。ぶ厚いヨーロッパの壁を打ち破った。
ちなみにこの年、カンクネンは自身4度目となるドライバーズタイトルも獲得している。
翌1994年もST185は快進撃を続け、2年連続でマニュファクチャラーズタイトルとドライバーズタイトルの2冠を達成した。
この時のドライバーズタイトルはチームメイトのディディエ・オリオールで、カンクネンはドライバーズタイトルこそ逃したものの、ミスの少ないドライビングでマニュファクチャラーズタイトル連覇に貢献した。
つまりWRCにおけるトヨタの黄金時代は、カンクネンとともに築き上げたと言っても過言ではないだろう。
1994年シーズン後半にはST185の後継モデルであるST205を実戦に投入。1995年はシーズン開幕からST205で戦った。しかし、ST205はセッティングが難しいという課題を抱えていた。
課題克服の焦りからか、チームはターボチャージャーへ送り込む空気の流入量を制限するリストラクターに、不正な細工を施してしまう。これが発覚し、1995年シーズンの全ポイントが剥奪され、WRCへの1年間の出場停止という処分が下された。
トヨタは1997年、2年ぶりにWRCに参戦するが、このときはカローラ。結果としてトヨタとしてのセリカによるWRC挑戦は1995年が最後となった。
ラリージャパンがやって来る!
セリカのWRCへの参戦を振り返って改めて感じるのは、公道を市販車ベースの車両が、限界性能を引き出して走るからこそ、商品力の高いクルマの開発につながっていくということだ。
WRCという世界最高峰の舞台で、世界中の道でライバルたちと過酷なバトルを繰り広げてきた経験が技術力を引き上げ、結果として2年連続で世界チャンピオンに輝くことになった。そしてこのノウハウは、市販モデルに注ぎ込まれることになる。
そして2023年11月16日、いよいよラリージャパン(愛知・岐阜)が始まる。世界一を決めるバトルと同じくらい楽しみなのが、ユハ・カンクネンの来日が決まっていることだ。
「天才肌で練習をしなくても速い」「おそろしくミスが少ない」と言われた伝説のドライバーは、はたしてハンドルを握るのか。ラリージャパン当日は、その一挙手一投足から目が離せない。