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豊田章男への40の質問 「トヨタが普通の会社に戻るという恐怖が常にある」

2023.11.07

今、豊田章男が語る「社長就任14年間で悩み、行動してきたこと」。そして、「これから」のこと。

ドンドン、ドンドン。壇上に上がる豊田章男の足音が会場に響いた。それは、いつもより大きな音だった。足音で何かを伝えているようだった。

会場には、ジャパンモビリティショーに合わせて来日した海外販売店の代表者などが、豊田の話を聞くために集まっていた。

冒頭、何名かのメンバーが豊田社長時代のトピックを語り始めた。そのとき、豊田はまだ壇上にはいなかった。そのまま20分がたった。

豊田の足音が響いたのは、司会者がさらに話を続けようとしたときだった。

会のタイトルは「豊田章男塾」。

壇上に上がると豊田は笑顔を見せて、「今日の目的は、トヨタの社長という肩書を持った人の仕事を振り返ることではありません。ここからは一人の人間として話をさせて下さい」と、参加者から寄せられた40の質問に答え始めた。

あなたにはできないと言われ続けた

Q1. トヨタの社長が海外のディーラー大会(販売店代表者会議)で英語のプレゼンをした例は豊田社長以前にはなかった。なぜ「顔の見えるトップ」になろうと考えたのか?

副社長時代にアメリカのディーラー大会に行ったとき、日本から行く役員はゲスト扱いでした。本来、ゲストはディーラーです。なぜ日本のトップがゲストなのかずっと疑問に思っていました。社長になってから米国トヨタ(北米のディストリビューター)と一緒になってディーラーに感謝する場に変えていこうと思いました。

アメリカのトヨタのディーラーは販売権を売り買いできます。また、フォードやクライスラーのブランドを持っているディーラーもあり、他社も同じようにディーラー大会をやっている状況でした。そこで自分自身がステージに出て感謝を伝え、応援をもらいたいと思ったのが最初でした。

当然英語でやりましたが、一緒にやる仲間のサポートもあったからできました。仲間の一人は私をトヨタの社長ではなく、一人の人間としてプロデュースしてくれました。日本人ではあるけれども、食べているものも、おもしろいと思うことも同じだよね、ということを表現したかったんです。私の英語は上手ではないですが、チャーミングだねと言われます。そこまで下手ではないけど、ネイティブでもない。「上手くない英語」が武器になり、チャームポイントになったと思います。

ただ、2009年に社長になって最初のうちは、赤字やリコール問題もあり謝罪ばかりでした。いろいろな地域を周っても、「やっと謝りに来たのか」という反応ばかりでした。英語でうまく伝わるかわかりませんが…私の社長の「社」は「謝罪の謝」でした。いつかは「感謝の謝」になりたいなと思っていました。


Q2. 一番好きな地域はどこか、こっそり教えてほしいです。

この回答はシンプルです。商品を大切にしてくれる地域、笑顔が多い地域です。

現地に行ったら要望ばかりしてくる地域や、ただ単にクルマが足りない・余っていると言ってくるところは避けたいです()。商品を愛し、笑顔になってくれる地域に、モチベーションが沸くと思います。


Q3.
会う相手、行き先はどのように考えて決めるのか?

難しいですね。社内の各機能の都合で「会長を連れてきたぞ」と良い気になる中間管理職がいるところは嫌ですね。

一番商品に近いところ、ディーラーや現場の従業員が喜んでくれる地域が良いです。皆さん自分の胸に手を当ててください(笑)。


Q4.
アフリカ、新興地域を先進国と同じ目線で見て、「誰も取り残さない」といつも言ってきたが、その理由は?

私が社長になったときは、グローバルマスタープラン(販売台数、シェア、収益の中長期計画)というものがありました。本社がどこの地域にどう割り当てるかを、紙の上でやってました。

「それは失礼でしょう」と思っていました。各地域では町いちばんになるために、日々、お客様とフェーシングするなかで、トヨタブランドのベースを作ってくれています。

地域制と車両ごとのカンパニー制を設けることで、どの地域のことも、どのクルマのことも会社の中で一番に考える人がいる形にしました。

その上で私が覚悟を持って決断をするので、イコール(均一)ではなくフェア(平等)になるのだと思います。

車両配分の多い少ないではなくて、情熱を持ってお客様の顔や要望を伝える努力をしている人に報いたいです。


Q5. 14
年間「もっといいクルマづくり」と言い続けて、多くの魅力的な商品を出してくれた。最初は理解できなかった人も多かったと思うがどうやって社内外の味方を増やしたのか?

14年かかりました。2011年のアメリカ西海岸ぺブルビーチでのレクサスの GS 発表会で「レクサスは Boring(退屈)だ」と言われた日から、もっといいクルマづくりへの想いがギアアップしたと思います。

当時、ドイツのニュルブルクリンクでテスト走行していましたが、トヨタだけが中古車でした。これから出る開発車を走らせている欧州メークからは、「トヨタにはできないでしょう」と言われて、さらに火が付いたと思います。本当に時間がかかりました。

私が白い巨塔と言っている技術陣は、当時はクルマの印象を伝えても、「そんなデータはない、苦情は来ていない」と会話がクローズされました。

出方を変えて、こっちの方が良いと思うから乗り比べてみてよとお願いをしても、「データ上は同じです」と返ってきました。本当に大変でした。

味方もいない、理解をしようとする人もいない中、技術屋でもない私はただハンドルを持ち、運転技能を身に付け、乗り続け、感性を磨いていました。今は私の感性をデータにすることもできたり、印象を聞こうとするエンジニアも増えてきました。

開発車も試乗してくださいと持ってくるようになりました。時にはプロドライバーも一緒に乗ってもらい、直接CE(チーフエンジニア)に電話してお互いに感じたことを会話する。

そのフィードバックを反映して1週間後にすぐに私のところに持ってきてくれるようになりました。

14年もかかりましたが、今のクルマづくりの部隊に考え方をしっかり伝えて、元に戻らないようにするのが私のマスタードライバーとしての役割です。

Q6. 苦労が多く孤独で一人で戦ってきたと思う。そんな中でも社長になって嬉しかったことや忘れられない出来事は?

商品を軸にした経営ができる会社に変革したことに尽きます。今後の成長への土台ができたと思います。だからこそ次の体制に譲ることができました。

私が引き継いだときは、荒れ果てた農地で土の改良から始めざるを得なかった。

今は収穫間際、育成中、種を植えているなど、いろいろな畑があると思います。このサイクルを絶え間なくやることだと思います。


Q7.
豊田会長の中には喜一郎さんがとても大きな存在としてあると思います。社長の14年間、喜一郎さんに何をご報告したいですか?どんな言葉をかけてほしいですか?

祖父の喜一郎は、私が生まれたときには亡くなっていたので会ったことはありません。ただ私がとても意識している人です。

織機を作っていた時代から、自動車づくりにモデルチェンジしていなければ、今のトヨタはないと思います。さまざまなステークホルダーが決断し、自動車事業に舵を切ってくれたおかげです。

でも、創業メンバーは全くいいところを見ていません。それが孫としては、とても…。悔しいだろうなと思います。

喜一郎は苦労ばかりして57歳の若さで亡くなりました。57歳になったときに「私の体を使ってください。命をかけてトヨタらしさを取り戻します」 と誓いました。

現実世界ではバッシングばかりで私は褒められませんが、私はどうあれ、トヨタには商品が好きな人がこの14年で増えたと思います。商品が好きな人が増えたら、私はどれだけバッシングされてもいいと思っています。

唯一褒められたい人はおじいちゃんです。天国に行ったときにおじいちゃんから「お前みたいな孫がいてよかった」と褒められたいです。


Q8.
国内生産300万台維持にあたりさまざまな課題があったと思うが、立ち向かうにあたり大切にしていたことは?

2011年当時、円高で1ドル70円台くらいでしたが、今と同じことやっていても収益が半分しかない時代。同じことをやるにせよ、当時は何とか赤字を脱出したばかりで体力もなかった。

でも、トヨタに人生をかけた人がいる。一日の大半をトヨタの仕事に費やしてきた人に報いないと駄目だと思いました。

震災前の日本全体の生産台数は約1000万台です。その後、円高もあって約100万台が海外に移りました。

「トヨタはなぜ日本でつくっているのか。なぜ東北に新しい拠点を設けるのか」と言われてきました。私はクルマづくりに関わってきた人の人生を、おかしくしたくない。

それはトヨタ一社だけのことを語っているのでもなく、1000万台の生産規模があるから成り立つんです。部品メーカー、素材メーカー、設備メーカー、設備の保守保全をするメーカーは1000万という母体があるからできる。

すべてを見ることはできなくても、トヨタの300万台を何がなんでも残せば、日本全体の生産が800万台規模で残るのではないか。そうすれば、自動車業界550万人の仕事は残るんじゃないかと思っています。


Q9.
カーボンニュートラルで選択肢は一つではないと言い続けるなど、周囲の批判や反発に耐えながらもやり遂げる胆力はどこで身に付けたのか?

「あなたにはできない」と言われ続けてきました。

社長に就任したとき、創業家にしたけど駄目だった、赤字の責任取って早くやめなさいという雰囲気を感じていました。でも、なぜか私には現場の仲間が付いてきました。それゆえに応援してくれる人も増えました。

なにより危機対応が続いたこと。それがなければ社長を辞めていたと思います。責任を取るから現場はやりましょうと言うことができた。これが私を支えてくれたと思います。

胆力なんかはありません。自己主張ではなく、みんなの仕事を守ろうとしているのに、何でこんなこと言われるのかと、今でもつらいです。


Q10.
会長が実現したい夢は?実現するにあたって立ちはだかる最も困難なことは?

夢を持つなというふうに育てられました。人のために生きろと言われてきましたから、夢というのはあまりないのですが、困難なチャレンジはいくらでもあります。

傲慢・対立・批判・悪口・無行動。できない理由を理路整然ということはトヨタに多いです。いかに、何もしないことが一番正しい選択肢かと。

ただ、全員ではなくなってきました。でも嘘はつかなくても本当のことを全部言わないんです。自分たちにとって都合の良い状況だけを言ってきます。

責任と覚悟をもって決断しないといけない立場では、事実を見ないといけないのですが、網羅はされていない。今ある事実だけで覚悟を決めるのが大変だったと思います。

役員になって23年たちますが、決して心が休んだ日はありません。負け出したらすぐ引退しないといけない横綱みたいなものです。負けたら終わりですので。

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