トヨタ自動車入社後、「自分のためではなく、誰かのために走っている」と心境が変化した。その理由とは?
表彰台にのぼり歓声やフラッシュを浴びるアスリートたち。その傍らには彼らを支える「人や技術」がある。バラエティに富んだサポーターはいかに集まり、どんな物語を生み出してきたのか。そこから未来への挑戦を可能にする「鍵」を探っていく。
生まれ変わってもこの家族に生まれたい
2019年9月15日、東京2020オリンピックマラソン日本代表選考会として、マラソングランドチャンピオンシップ(MGC)が開催された。トヨタ自動車所属の服部勇馬選手は、当時の日本記録保持者の大迫傑選手とのデッドヒートを繰り広げる。そしてラスト約200メートルの上り坂で引き離して2位に入り、見事、東京2020オリンピック代表の座を射止めた。
東洋大学在学中は駅伝のエースとして活躍した服部選手に、社会人になって成長したところを尋ねると、「視野が広くなったと思います」という答が返ってきた。
学生時代は、自分の競技成績さえよければいいという考え方になりがちでした。けれども社会人になってからは、僕のことを支えてくださる方々の存在を意識することが多くなりました。周囲のことを考えられるようになったことは、競技で納得いく成績が残せるようになったことと無関係ではないと思います
こう語る服部選手は、どのような人々に支えられてオリンピック代表の座にまで上りつめたのだろうか。競技生活とご自身を支えた人々との関係を振り返っていただいた。
新潟県で生まれた服部選手は、中学3年生のときに全国大会で好成績を残し、陸上競技の名門である仙台育英高校からスカウトの声がかかる。
そのとき、父が「人生が変わるかもしれないから行ってみたら」と言ってくれたんです。父の言葉は心にすごく響きましたし、あのように言ってくれなかったら僕は地元の高校に進むつもりだったので、今とは違う人生になっていたと思います。あのときの父の後押しには感謝しています
ただし、15歳の少年が親元を離れるにあたっては、本人にも家族にも葛藤があった。
仙台育英の寮に入ったときは、両親と妹が仙台まで車で送ってくれたんです。僕が入寮して3人が新潟へ戻る帰り道に電話をくれて、みんなが泣いていたと聞いて思うところがありました。そして1年後に、ひとつ年下の弟の弾馬が仙台育英に入学しました。再びふたりで陸上ができるという喜びもありましたし、私生活でも支え合うことができたので、1年生のときよりも心強かったです。弾馬の面倒を見るという面もあったんですが、一緒にできることでモチベーションが上がりましたね
このように、服部選手が競技人生を始めるにあたっては、家族の絆が大きな支えとなっていた。冒頭のMGCでは、服部選手はユニフォームの胸に10歳下の妹の葉月さんが作ってくれたお守りをつけて走ったという。お守りには、亡くなった祖父母の写真が入っていた。
本当に最高の家族だと思いますし、生まれ変わってもこの家に生まれてきたいと思います。家族の存在には、感謝してもしきれません
褒めるのではなく、課題を指摘してくれた学生時代の恩師
仙台育英高校でインターハイや全国高校駅伝で活躍した服部選手は、大学進学を控えて恩師とも言うべき人物と出会った。
ありがたいことにいくつかの大学から誘っていただきました。ほとんどの大学の指導者が僕のことを褒めてくださりましたが、東洋大学の酒井(俊幸)監督だけが、「君の課題はここで、もっとやり方を考えるともっと強くなれる」というアドバイスをくださったんです。酒井監督の指導を受けることができたら強くなれるんじゃないかと考えて、東洋大学に進みました
東洋大学に進んだ服部選手は酒井監督の指導の下、箱根駅伝で各校のエースが集まる“花の2区”で2年連続の区間賞を獲得するなど、華々しい活躍を見せる。世界を意識したのも、東洋大学在学中だった。
大学1年のときに、箱根駅伝で走りたいという小さな頃からの夢を実現することができ、次は何を目指そうかと考えていました。そんなタイミングで東京でのオリンピック開催が決まったので、そういうチャンスがあるなら可能性に賭けてみようと思い、オリンピックのマラソンを意識するようになりました
大学卒業後の進路を考えるにあたっては、「幅広い業務やグローバルの体験をすることで見識を広げることができると思った」という理由で、トヨタ自動車を選んだ。
学生時代の知識や見聞だけだとどうしても狭いので、選手としても人間としても成長に限界があるという危機感がありました。トヨタ自動車ではいち従業員として走らせていただけるということだったので、社会人として働くことで人間の幅を広げて、土台をしっかりさせれば、より高いところに行けると考えたんです
自分を見捨てなかった指導者への感謝
こうして、輝かしい実績と、東京2020オリンピックを目指すという大きな夢を持ってトヨタ自動車に入社した服部選手だが、競技人生で初めてともいえる大きな壁にぶちあたる。
いま思えば入社当時は考え方がすごく子どもで、学生時代は競技成績もよかったので、そのままの流れで競技を続けていました。僕自身はより効率よく練習をしようと思っていたのですが、トヨタ自動車の佐藤(敏信)監督からは、お前の課題はスタミナで基礎体力をつける練習をするべきだと指摘されました。でも聞く耳を持たずに自分なりの練習を続けていたら、ケガもあって全然走れなくなってしまったんです。東洋大学のときも走れない時期がありましたが、トヨタに入社してからが競技人生で一番苦しい時期でした。僕にとって走るということは何事にも代え難いものなので競技を止めたいと思ったことは一度もないのですが、それでもつらい日々でした
こうしてどん底の状態にあった服部選手に手を差し伸べたのが、トヨタ自動車の佐藤監督だった。
佐藤監督のアドバイスは、服部選手の言葉を借りると「泥臭い、20年前、30年前とあまり代わり映えしない練習をすること」だったという。
東洋大学の酒井監督にしろ、トヨタ自動車の佐藤監督にしろ、服部選手の課題を見つけてくれる恩師がいて、その課題を本人が改善することで成績を伸ばすことができたのだ。
自分のためではなく、誰かのために走っている
自分ひとりで走るのではなく、周囲の声を聞きながら走る姿勢は、社会人になってから身についたものだと服部選手は語る。
入社当初は、陸上競技のスター選手だということもあってか、少し職場との距離を感じていたという服部選手。しかし最近は、「ここが服部の帰って来る場所だから」と言ってくれる同僚が増えるなど、心の支えになっているという。
指導してくれる監督とコーチ、取材や遠征の調整をしてくれるマネージャー、身体のケアをしてくれるトレーナー、栄養を考えながら食べたいもののリクエストに応えてくれる栄養士──。
学生時代は自分のために、自分だけで走っていると感じていたというが、現在は家族をはじめとする応援してくれる人のために走っているという感覚が強くなっていると、服部選手は明快な口調で語る。
「結果を出してみなさんの笑顔を見ることが一番のモチベーションになっています」という力強い言葉で、服部選手はインタビューを締めた。
(文・サトータケシ)
服部勇馬 | HATTORI YUMA
陸上(フルマラソン)
1993年、新潟県生まれ。中学3年時に1500m全国7位、高校2年時では10000mを歴代2位のタイムで走り、3年時のインターハイでは5000mで5位と活躍。東洋大学進学後、3・4年時には箱根駅伝2区で2年連続区間賞を受賞。卒業後はトヨタ自動車株式会社に入社。入社2年目の2018年福岡国国際マラソンでは日本勢14年ぶりの優勝を果たす。趣味はサッカー観戦。