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「幻のレースカーを復元せよ!」 第1回 豊田喜一郎の信念が生んだトヨペット・レーサーとは

特集 2021.11.17 UPDATE

INDEX

トヨタ社内で今、復元が進む幻のレーシングカーがある。それは誰がどんな想いで、どんな目的で開発した、どんなマシンだったのか。その歴史と意味、そして復元の現場をリポートする特集企画。

第1回は、このプロジェクトの推進者、トヨタ博物館の館長を務める布垣直昭に話を聞いた。

創業者・喜一郎の、知られざる「情熱と想い」

「トヨペット・レーサー」というクルマを、あなたはご存じだろうか。トヨタ自動車工業(現トヨタ自動車)が1951年、初めて関わりこの世に送り出した、レーシングカーと言ってよいだろう。

1951年に完成した2台のトヨペット・レーサー。左が1号車、右が2号車(提供:愛知トヨタ自動車株式会社)

このクルマこそ、もっといいクルマづくりのためのレース参戦の原点だ

このレーシングカーには、トヨタ自動車の創業者である豊田喜一郎(1894-1952)の熱い想いが込められた、トヨタを語る上で欠かすことのできない存在であることが、さまざまな資料から明らかになっている。

トヨタ自動車の創業者である豊田喜一郎

このトヨペット・レーサーに込められていた喜一郎の想い。それは、レースへの参戦を通して、日本の自動車産業の未来を開くという、壮大なものだった。

資料が語るその姿は、「もっといいクルマをつくろう」という目標を掲げ、自らドライバー「モリゾウ」としてモータースポーツを起点としたもっといいクルマづくりに情熱を注ぐ豊田章男社長の姿と重なる。

幻のレーシングカー

だがこのレーシングカーの存在は、トヨタの社内でもほとんど知られていない。それはなぜなのか。

「トヨペット・レーサーは、豊田喜一郎が唯一関わったレーシングカーです。しかし1950年春、トヨタ史上最大といわれる経営危機の最中であったために、トヨタ販売店協会が製作するという異例の体制がとられました。また、日本のレースがまだ創生の混乱期にあったこと。さらに喜一郎が52年に急逝されたこと。こうした事情から、あまり多くを語られることがなかったため、だと思われます」

社会貢献推進部長兼トヨタ博物館館長の布垣直昭

布垣自身、現在の歴史をあずかる仕事に就くまでこのクルマの存在を知らなかったという。この車両やその背景については、トヨタのモータースポーツ部、トヨタ博物館を経て、退職後も歴史編纂に尽力された松本秀夫氏の著書『トヨタ モータースポーツ前史 トヨペット・レーサー、豪州一周ラリーを中心として』(2018年三樹書房刊)に詳しい。

この本によれば、このレーシングカーの開発が初めて公に登場したのは、1950年11月。同年4月にトヨタ自動車工業(以下、トヨタ自工)の販売部門を分離独立し、設立したトヨタ自動車販売(以下、トヨタ自販)の宣伝部が発行する広報誌『オール・トヨタ』(1130日発行)誌上だ。ここでトヨタ自販宣伝部は「トヨペット・レーサー」による、オートレースへのトヨタ参戦を提案している。

ところがこのとき、豊田喜一郎はトヨタ自工にはいなかった。同年6月に社長を辞任していたのである。

トヨタ史上最大の危機の最中に

トヨペット・レーサーがつくられた当時の日本は終戦からわずか5年。当時は、政治も経済もすべてがGHQ(連合軍総司令部)の管理下にあり、クルマの生産にもGHQの許可が必要な状態だった。そして、トヨタを含む日本の自動車産業は1949年にようやく乗用車の生産を全面許可される。

しかしこの直後、日本は大不況に陥る。1949年、GHQによる財政金融引き締め政策、いわゆる「ドッジ・ライン」によりクルマの売上は激減し、自動車メーカーはかつてない深刻な経営危機に直面。各社は従業員の人員整理を行った。

ドッジ・ラインによる「ドッジ不況」における自動車販売の危機的な状況と、月賦販売開始を知らせる1950年の『トヨタ新聞 第3号』

この危機の最中である1950年4月、製造と販売の分離政策として行われた、販売会社トヨタ自動車販売の設立は、この苦境を脱するための切り札だった。しかし、トヨタでも会社と組合が対立する労働争議が起こる。当初、労使双方は人員整理をしないことで合意していた。しかし、経営再建のための融資元である日本銀行を筆頭とする24行の協調融資団に抗しきれず、会社は早期退職の募集による人員整理を実施。最終的には和解したものの、豊田喜一郎はその責任をとって自らの意思で社長を辞した。「喜一郎社長が辞任する必要はない」との声が組合からも上がっていたが、思いは強かった。

1950年設立時のトヨタ自動車販売株式会社の本社

「トヨペット・レーサーの開発・製作は、豊田喜一郎が後に愛知トヨタのPR誌に書いた寄稿文の内容から、御本人のアイデアであることは間違いありません。しかも、あの危機の中、レース参戦を考えておられたのは驚くべきことです。自らが社長を辞したトヨタ自動車工業でこのクルマを製作することは不可能だったでしょう。しかし喜一郎は、戦中戦後に乗用車をつくれなかったことによる欧米との技術格差拡大を取り戻し、日本の自動車産業の未来、その発展のためには、小型で高出力かつ燃費のよいエンジンを開発し、優れた小型車を世に送り出すことが必要不可欠だという信念を持っていた。そのためには、自動車レースに参戦し、レースを通じて技術を向上させなければならない。トヨタも一刻も早くレーシングカーを製作し、レースに参加しなければと考えていました」

そこで選択されたのが、トヨタ自工ではなく、販売会社であるトヨタ自販が開発・製作を担当するという体制だった。「トヨタ・レーサー」ではなく「トヨペット・レーサー」という名前になったのは、当時公募で選定されたトヨタ車の愛称「トヨペット」の浸透に役立てるという狙いからと思われる。

トヨペット・レーサーが、豊田喜一郎のアイデアであることは、喜一郎が小早川元治氏に書いた手紙の文面からも察することができる。

豊田喜一郎が日本のモータースポーツ界の草分け的存在であった小早川元治氏に送った手紙

小早川氏は喜一郎の知人であり、アマチュアレーサーとして第二次世界大戦前から活躍していた日本のモータースポーツ界の草分け的な人物。喜一郎はトヨタのレース活動について、小早川氏にアドバイスを求めていたようだ。手紙の中には「こういう話は製造会社のみよりは販売会社と協力させる方が有利と存じますので販売会社にも話しておきたいと存じます」という一節がある。ここから「トヨぺット・レーサー」というプロジェクトは豊田喜一郎自身が推進しようとしていたことが分かる。

ベースはトヨペットSD型のシャシーとエンジン

では、トヨタ自動車販売店の技術者たちの手でつくられたレーシングカー「トヨペット・レーサー」とはどんなクルマだったのか。

ベースになったのは1949年に誕生し、主にタクシーとして活躍した「トヨペットSD型乗用車」。これは、1947年に誕生した小型トラック「トヨペットSB型トラック」のラダーフレームに27馬力を発生する995cc直列4気筒サイドバルブ「S型エンジン」を搭載し、全鋼製乗用車ボデーを架装したクルマである。

トヨペットSD型乗用車

「トヨペット・レーサーはこのラダーフレームとエンジンに、トヨタ自動車販売店のサービス部が独自に製作した、当時のヨーロッパのレーシングカーを彷彿させるフォルムのボデーを組み合わせたものだった。1951年5月に大阪トヨタ自動車の手で完成したのが1号車、愛知トヨタ自動車の手で完成したのが2号車である」

S型エンジン
愛知トヨタ自動車による2号車の製作風景:メーター、ステアリング、ペダル等はトヨペットSD型乗用車のパーツがそのまま使われた。(提供:愛知トヨタ自動車株式会社)

「ボデーは手づくりで、しかもデザインは現場に一任されていたので、1号車と2号車は外観が大きく異なります。当初は6台が製作される予定だったようですが、結局この2台で終わったようです」

活躍予定の場はオートレース

では、この2台のトヨペット・レーサーは当時の、どんなレースのために開発されたのか。それは、1950年に国会で成立した「小型自動車競争法」という法律に触れなければならない。

1950年3月に国会に提出されたこの法案には、当時の国産自動車と自動車レースに対する考えが反映されていて興味深い。

その内容は、国産の2輪、4輪の小型自動車のみでレースを開催。レースを通じて自動車のエンジン、車体の性能を向上させ、将来海外に輸出できる小型車の開発につなげようというものだった。つまり、国産自動車の開発振興がいちばんの目的だった。

同時にこの法案にはもう一つの目的があった。それは当時大人気だった競輪と同様に、地方自治体が開催・運営する公営ギャンブルとして自動車によるレースを行い、その収益を地方自治体の財政状況改善に役立てることだ。

現代の私たちは、マシンをイコールコンディションにして行われる2輪のオートレースや競艇のようなギャンブルレースと、モータースポーツとしてのレースはまったく別物であることを知っている。だが、モータースポーツがまだ一般的ではなかった当時の日本では、この区別はまだ不明確だったのだ。

1950年5月末、この法律は国会で成立し、10月には千葉県船橋市は船橋競馬場の内側に併設されたレース場で、オートバイ主体による「第1回オートレース」が6日間にわたって開催された。そこでは、ダットサン、オオタ、その他1台によるエキシビジョンレースも行われ、大観衆を集めている。

トヨタ車を販売するトヨタ自販の宣伝部が、前述したように19501130日発行の『オール・トヨタ』誌上で「トヨペット・レーサー」の開発を提案したのは、ライバルメーカーのこうした活動を踏まえてのことでもあった。

お披露目された「トヨベット・レーサー」。左が1号車、右が2号車(提供:愛知トヨタ自動車株式会社)

オートレースでのトヨペット・レーサーの活躍は、当時販売していた自動車「トヨペット」の販売に直結するはず。つまり、トヨペット・レーサーの開発・製作とオートレースへの参戦は、販売促進政策の一貫でもあったのである。またオートレースならば、参戦すれば出走するごとに賞金を獲得できる。だから、マシンの製作費も回収できるのではないか。また、参戦を重ねることにより宣伝効果で多大なメリットが生じると考えていたようだ。

そして195012月、トヨタ自販の宣伝部は「19515月に船橋で開設される自動車レース場でのオートレースのために、本格的なレーシングカーを2台つくる」ことを決定する。そして、トヨタ自工技術部や試作課との話し合いの結果、トヨタ自動車販売店の大阪トヨタと愛知トヨタのサービス部が、トヨペット・レーサーの開発・製作を担当することになったのである。

日本の自動車産業の未来のために

ところで、豊田喜一郎は、異例の体制で行われたこのトヨペット・レーサーの開発・製作について、どう考えていたのだろうか。

この点について『トヨタ モータースポーツ前史 トヨペット・レーサー、豪州一周ラリーを中心として』には、興味深い記述がある。2台のトヨペット・レーサーが完成する19515月から2カ月前の3月1日に、トヨタ販売店協会の役員会に出席した際の「談話」だ。

そこで喜一郎は、「ギャンブルレースとしての自動車レースの開催には疑問があり、全面的に賛成してはいないが、国産車であることが条件のオートレースが、日本の自動車技術の発展に貢献するのであれば、積極的に参加すべき」と語っている。さらにこの考えは、喜一郎が1952327日に57歳で急逝する直前、愛知トヨタ自動車のPR誌『愛知トヨタ』3月号に寄稿した『オートレースと国産自動車工業』にも書かれている。

(提供:愛知トヨタ自動車株式会社)

少々長いが、その結びの部分をご紹介しよう。

敗戦国民の吾々(われわれ)が、今直ちに外国の真似をしてレーサー専門の車を新しく設計し製作することは経済上不可能であるが、現在ある車を100馬力以上出さしたり、特別安定性のあるシャシーを作る位の事は不可能ではない。当分の間はそれで充分興味のわく競争が出来る。その中に段々経済状況も良くなり吾々に力がついてきたならば、外国にもまけぬレーサーを作って外国で競争することも出来よう。それには1000cc200馬力は出さなくてはならぬ。

 そこまで行くと日本の自動車も外国にみとめられ、海外にどしどし売れて行く様になると思う。前途尚遼遠の様であるが吾々の努力次第で慈数年(じすうねん)の中にそういう時代が来ることを確信している。世間では日本は既に自動車事業は確立している様に考えて居る人もあるが、トラックの製造工業は正にその通りであっても、自動車工業の本体は乗用車にある以上、日本の自動車工業はまだ三番叟(注:さんばそう=能狂言の三番叟で3番目に出てくる老人のこと)の時代でこれからが本舞台になろうという所である。前途洋々たるものがあると共に、そこに非常な困難がある事を忘れてはならない。オートレースと国産自動車工業の発達とは車の両輪の如く一方のみが進むことは出来ない。この数年間両者相伴って進歩することであろう。

ここには、レース活動を通じて技術向上を図り、外国車に負けない高性能な小型車を開発して海外市場で成功する、モーターレースの世界でも海外メーカーと対等に戦うという、日本の自動車産業の未来へのビジョンが述べられている。

トヨペットSD型をコンポーネントに使ったトヨタ初のレーシングカー「トヨペット・レーサー」の開発・製作は、まさにその第一歩だったのだ。布垣は豊田喜一郎のこうした想いを未来に伝えるためにも、このレーシングカーをぜひ復元したいと考えた。

「トヨペット・レーサーという4輪オートレースを舞台にしたプロジェクト自体は、残念ながら大きな実を結ぶことはありませんでした。しかし、創業者である豊田喜一郎が唯一関わったこのレーシングカーと、このクルマに込められたレースを通じて『もっといいクルマをつくろう』という喜一郎のDNAは、時代を超えて、孫である豊田社長にまで受け継がれているのです。この想いを未来に伝えるには、このトヨペット・レーサーの復元がもっともいい方法だと考えました」

復元プロジェクト始動

トヨペット・レーサー復元プロジェクトへの想いを語る布垣

布垣は20181015日、豊田社長に「トヨペット・レーサーをぜひ復元したい」とメールで提案したという。

「豊田社長は、モータースポーツを『もっといいクルマづくり』の場であり、『自動車産業の未来に貢献する活動』であると考えています。去る522日から23日、自らもステアリングを握って水素エンジンを搭載したカローラで『スーパー耐久(S耐)シリーズ2021 3戦 富士24時間レース』に出場、完走したのは、まさにこの考えを実践したもの。そしてトヨペット・レーサーは、この考えの原点。しかも、祖父である喜一郎氏が唯一関わったマシンなのです。だから、ぜひ復元したいという夢をお伝えしました」

豊田社長はこの提案を快諾。ここから、布垣と社内有志の手で、このトヨペット・レーサーの復元プロジェクトが始まった。

この特集記事の第1回では、もっといいクルマづくりのためのレース参戦の原点である、レーシングカー「トヨペット・レーサー」とは何かについてお伝えした。

次回は、この復元プロジェクトについて紹介する。

(文・渋谷 廉人)


布垣直昭Naoaki Nunogaki

チーフデザイナーとして初代「ハリアー」「アルテッツァ」「イスト」を手掛け、グローバルデザイン企画部主査、2006年からは同部部長と、トヨタ全体のデザイン戦略やブランディングを担当。2014年からトヨタ博物館の館長を務め、2020年1月からトヨタ自動車 社会貢献推進部長も兼任する。

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