BEVのプレジデントが語る"私のキャリア" 山本シンヤ氏インタビュー

2023.10.24

今年、新たに"プレジデント"となった3人を、自動車研究家 山本シンヤ氏が直撃! 第2弾はBEVファクトリー加藤武郎プレジデント編。これまでのトヨタマン人生を掘り下げた。

BYDとの協業はたった1人でのスタート

つまり、加藤氏はさまざまな部署・経験を経てボデー設計のスペシャリストに。しかし、2018年に出張で訪れた中国で衝撃を受けた。

中国の部品の競争力を初めて思い知りました。中国では技術を学んで、「手の内化」を愚直に進めるだけでなく、モノづくりの改革もハイスピードで進められていました。

当時日本で見たこともない設備がズラッと並んでおり、最新鋭のモノづくりを目の当たりにして「やばいぞ!!」という危機感と共に「自分の会社人生、最後は中国でやりたい」と考えるようになりました。

この時は単なる“希望”だったが、その時は突然やってきた。

その後、ボデー設計を卒業して寺師茂樹副社長(現・エグゼクティブフェロー)のもとで「次世代TNGAをどうするのか?」という計画を進めることに。

ただ、部署が変わった初日、寺師が突然「加藤君、3カ月でこの仕事を終わらせてもらえるかな?」と。

さすがに「寺師さん、僕、今日ここに来たばかりですが」と伝えましたが、はぐらかされ……。ただ、指示通り3カ月で仕事を完了させました。

すると、ゴールデンウィーク2日前に突然、「ちょっといい?」と技術本館の最上階に呼ばれました。

多くの役員がいる中、寺師から「実はBYDとのプロジェクトをやろうと思っているんだ。お願いしてもいいかな?」と。

確か1時間もない会議だったと思いますが、全くワケも分からず、完全に「?」でした。

つまり、BYDと共同で電気自動車を開発するプロジェクトの責任者に任命されたのだ。

その後「寺師さん、他のメンバーは?」と質問すると、「今から集めてもらっていい?」と言うので、必死に集めました(汗)。

1人ですが“責任者”なので、すぐにBYDの日本法人の方に連絡すると「直近で名古屋に行きますよ」と。お会いしたのは、ゴールデンウィーク中の土砂降りの日。

極秘事項なので名古屋駅の駐車場の最上階、自分が乗っていったプリウスの車中で「初めまして」から始まり、今回の事情を説明。2人で膝にパソコンを置いて一緒に出張計画を立てました。

先方のクルマ情報も分からないので、必死で勉強しました。

そして、ゴールデンウィーク明けにBYD本社に。リーダーにお会いしましたが、当然「初めまして」では済まず、「これからどういう計画を立てたいのか?」、「どんなクルマをつくりたいのか?」と質問攻めに……。

心の中で「内示されたのは数日前なんだけどな……」と思いつつも、その場でパッケージのスケッチを自分で描き、「こんなクルマをつくりたいんです」と議論しました。

なんとこのピンチを救ったのは、加藤氏が若い時から特技の一つだと語っていた “スケッチ”だった。人間、どこで何が役に立つかは分からない(笑)。

BYD本社への出張を続け、半年間、下準備をしました。その後、2020年、年が明けてから「こんな構想で行きたい」と決め、クルマ全体のメンバーを集めて、その年の7月に開発をスタート。初年度は45人、自分のコネクションで信頼できる人にリーダーに就いてもらいました。

最初はボデー設計部の人からスタートしましたが、車両基盤企画部の時に知り合いになった他の技術部署や生産技術の人にも話をして、多くのメンバーが集まりました。

ここでも、これまでの仕事やネットワークが役に立っていた。

大変更13回 変え続けて開発したbZ3

実際BYDに行って感じたことは?

中国の変化のスピード、技術が向上してきている感覚は元々持っていたので、「早く懐に入って自分たちにないものを吸収、先の発展につなげよう」と思っていました。

開発はBYDとトヨタ、中国人と日本人などは関係なく一緒に進めました。人数はBYDが多いので、どうしても日本人を中心に皆が集まる会話になりましたが、完全に対等に仕事をしました。

世の中的に見れば、加藤氏はbZ3のチーフエンジニアとなる。しかし、組織は柔軟に考えていた。

ある意味“特命組織”みたいな感じですね。両メーカーの活性化のために、あえてトヨタ流の「Z(製品企画)」組織はつくりませんでした。

実際にはボデー、シャシー、内装、パワートレーン、電子技術などのリーダーおよびメンバーに自分たちで企画、開発してもらいました。

つまり、豊田章男氏が常日頃から語っている「現場の判断で動く、ただし責任は上司が取る」というスタイルを車両開発で実践したのだ。それによりクルマづくりは変わった。

bZ3は「変え続ける商品開発」を行いました。今まではクルマの諸元は最初に決めた前提のもとに開発しますが、今回は開発スタート以降、大きなものだけで13回変更しています。

最初の大きな変更は開発から5カ月後に全高/ホイールベースを変更しました。全高は25mmぐらい下げたのでアンダーボデー開発は全てやり直し。日本だと完全にアウトで開発は止まったでしょう。

でも「お客様に喜んでいただける商品を出すんだ」という想いから、変えることを皆で決めました。心の中では「全損レベル」ですが、それでもやらねばと。最終判断は私がしました。

なぜ、そうしたか? 設計の皆が「もうやばい!!」と言っているなら、それを聞き、全員がいるところで、「これは変えないといけないね。皆で勝とう!!」と意識を合わせることが大事だと思いました。

同じ現場で、同じ問題意識を持とう、そして一緒に前に進もうと。

これこそが、領域を超えた「クルマ屋目線」のクルマづくりだ。

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