佐竹功年40歳。トヨタ自動車硬式野球部"レッドクルーザーズ"を19年間支えてきた右腕が、最後のマウンドに向かう。都市対抗野球開幕直前インタビュー。
小さなテークバックから繰り出される150キロ超の速球と、コーナーに投げ分ける制球力を武器に、数多くの強打者と渡り合ってきた右腕が、7月19日に開幕する都市対抗野球をもって現役を退く。
トヨタ自動車硬式野球部 “レッドクルーザーズ” 背番号「19」、佐竹功年。19年の現役生活で、社会人野球の2大大会である日本選手権を6度、都市対抗は、補強選手として出場した2014年も含めると3度制している。
輝かしい成績を収めることができた原動力はどこにあるのか。自身はこのように語る。
「僕自身はすごく弱い人間なんで、自分のために頑張れないんです。でも、誰かのためにという気持ちがあると頑張れる」。
「自分以外の誰かのために」――。これはトヨタが大切にしているマインドでもある。
佐竹は、その成績だけでなく、野球に向き合う姿勢を通じて “トヨタアスリート” としての在り方も体現してきた。
佐竹にとってトヨタとはどのようなチームだったのか。大一番を前に、これまでの歩みを聞いた。
生意気な若造だった
佐竹がトヨタに入社したのは2006年。佐竹自身は1~2年目のころを「生意気な若造だったと思うんですけど、好きなようにやらせてもらった」という。
だが、当時は選手同士で、今は選手と監督として佐竹を見てきた藤原航平監督に話を聞くと、少し違う捉え方をしていたようだ。
藤原監督
生意気は生意気でした。(笑)
でも「こうやったらいいんじゃないか」、「こうやったら勝てるのに」というところで生意気だったと思うので、それは全然なんとも思わなかった。
僕らはみんな、そういう(勝ちたい)想いでやってきたので、そういう意味での生意気さは良かった。
まあ、普段も生意気ですけどね。(笑)
佐竹が入社したころのトヨタは、日本選手権・都市対抗に出場することはあっても頂点に立つことはなかった。
どうやれば勝てるのか、勝てない原因はどこにあるのか。
チームとして模索し続けていく中、佐竹も先発陣の一角を担った07年の日本選手権で、トヨタは初めて全国制覇を果たす。さらに翌08年、10年も優勝。
自信を深めたチームだったが、一方で都市対抗では09年の準優勝が最高だった。
強豪トヨタをつくり上げたミーティング
「日本選手権だけは強いみたいな。自分たちもそう思っていた。本物の強さではなかった」。佐竹は当時のチームをそう振り返る。
転機が訪れたのは14年。佐竹を補強選手として加えた西濃運輸が都市対抗を制する。
勝ち上がるチームとはどういうものかを知り、「俺たちもやればできる」と感じ取った佐竹。この経験も踏まえ、トヨタは大会後、選手・スタッフ全員でミーティングを開く。
佐竹
スタッフと選手の間に考え方の違いとか、いまひとつ一つになりきれていないところがあった。
それをミーティングでしっかり話して、選手が「もっとこういう練習がしたい」、「もっとこうしたい」というのをスタッフが受け入れてくれた。
(中略)
僕らはそこで意見を言ったことで、選手一人ひとりにも責任感が生まれた。「言ったからにはやらないと」と夏以降、各々が自主性を持って自分のやりたいことをやってレベルアップした。
先輩も後輩も、選手もスタッフも関係なく、膝をつき合わせて話し合うことで芽生えた責任感。それはやがてチーム全体に広がっていった。
同年秋、トヨタは4度目の日本選手権優勝を果たすが、佐竹はこの時のミーティングが「大きな要因だった」とし「ここからトヨタは強くなった」という。
エースの矜持
15年は都市対抗、日本選手権ともに出場。全国大会の経験値を積み上げ、迎えた16年都市対抗、チームは躍動する。
準決勝までの4試合でわずか2失点と堅守で勝ち上がると、決勝のマウンドに上がったのは、エース佐竹。今大会3試合に登板し、21イニング1失点と抜群の安定感だった。
09年以来7年ぶりの決勝の舞台は「先取点だけは絶対に与えないという気持ちだけは持って、あとは楽しもう」という意識で臨んだ。
相手は、ここまで4試合で20得点をたたき出していた日立製作所。佐竹は再三得点圏に走者を進められながらも本塁は許さない。バックも無失策でもり立てた。
打線は樺澤健の先制本塁打、多木裕史の適時打などで加点し、終わってみれば4-0。佐竹は無四死球11奪三振、初戦に続く完封でトヨタに初の栄冠をもたらした。
「トヨタの社員の皆さん、豊田市民の皆さん、トヨタファンの皆さん、そして野球部を支えてくださったすべての方々に本当に感謝したいと思います。ありがとうございました!」
目に光るものを浮かべながら、大会後のインタビューでこう語った佐竹。 “誰かのためにという気持ちがあると頑張れる” 佐竹だからこそ出てきた感謝の言葉だった。
この時32歳。選手としてはベテランの域に入ってきていた。