水素エンジンの24時間レース挑戦に向けた連載。初回は通常のレース車両との違いと、挑戦を可能にした3つの技術について。
4月22日、トヨタはCO2をほとんど排出しない内燃機関“水素エンジン”の技術開発に取り組んでいることを発表。同時に、1カ月後(5月21~23日)に開催されるレースに、そのエンジンを搭載したカローラスポーツで参戦することも表明した。
参戦するレースは24時間走り続ける耐久レースである。熟成されたガソリンエンジン車でさえリタイア続出の過酷なレースに、なぜいきなり挑戦するのか?
その理由を、22日に行われた会見で豊田章男社長は、こう語っていた。豊田社長
この先のモータースポーツの可能性を秘めた水素エンジンにチャレンジしていきたいと思っております。
なぜ、24時間耐久レースなのかというと、3時間、5時間持つだけではダメだからです。24時間持たせるような準備ができていないといけない。
しかも、参戦ドライバーの一人が私自身です。水素というと爆発のイメージを多くの国民の方が持たれていますので、安全を証明するためにも私がドライバーとして参加していきたいと思っております。
レース車両を組み上げて、初めて走らせることを「シェイクダウン」という。実はこの「水素エンジン搭載カローラ」のシェイクダウンは4月24日だった。レース本番まで1カ月を切ったタイミングである。本当にギリギリのスケジュールで開発が進められていることがうかがえる。
その後、数回にわたってサーキットでの走行テストが行われ、レース本番を目指していく。
この水素エンジンが実用化すれば、今走っているガソリンエンジン車を“改良するだけ”でCO2排出ゼロにすることだって夢ではない。
そう考えると、この24時間レースは、カーボンニュートラル実現に向けた“とても大きな一歩”になるかもしれないと言われている。
そんな歴史的な24時間を、できるだけ多くの方々に“楽しみながら”見守っていただきたいと考え、トヨタイムズでは、テスト現場の取材内容を「24時間レースを見守るための予備知識」としてお伝えしていきたいと考えた。
全4回でお伝えする予備知識の第1回目は「クルマとして、なにが違うの?」
エンジンはGRヤリスと同じ!?
今回レース参戦するベース車両はカローラスポーツである。今までROOKIE Racingでモリゾウが乗っていたGRヤリスからすると、ひと回り大きい。
ただ、今回のプロジェクトを担当しているGRプロジェクト推進部 伊東直昭主査と坂本尚之チーフエンジニアに聞いてみると「今回の参戦車両にはGRヤリスの4WDシステムを搭載している」ということだった。さらには「エンジンもGRヤリスのものを転用している」という。
エンジンは水素エンジンなのでは? それなのに「GRヤリスのもの」とはどういうこと? と疑問が湧いてくる。さらに詳しく聞いてみると…。
伊東主査
今回の水素エンジン、“エンジンそのもの”は今までと変わりません。今回の活動のコンセプトは「既存の内燃機関技術をなるべく活用して水素エンジン化する」というところにありました。それが実現できれば、既存のクルマのエンジンを水素化してカーボンニュートラルに大きな武器になると考えたからです。
さきほどGRヤリスのエンジンを転用と言いましたが「エンジンを転用した」というよりは「転用できるように努力してきた」というのが正しい言い方です。
水素は、ガソリンよりも発火の温度が高い。同じエンジンで、水素を安定して燃焼させるのには、どのような努力があったのだろうか?
伊東主査
カーボンニュートラルのためには、新しくつくるクルマだけではなく、今すでにあるクルマや技術を生かして対応していくことも必要になってくるはずです。そのために、なるべく“わずかな部品の変更”と“制御技術”で実現できるように考えました。
数年前から取り組んできましたが、簡単にできたわけではありません。最初は「50%ガソリン・50%水素」のバイフューエルに挑戦しました。2016年に、モリゾウさんに乗ってもらったこともあります。
その後、100%水素に挑戦しましたが、当初は5分でエンジンが壊れました。あの頃を思うと、24時間レースに挑戦できるなんて夢のまた夢でした。
では、なぜ今回、24時間レースに挑戦というところまで開発が進んだのか? 尋ねてみると“大きく3つの要素”があるということだった。
水素エンジンで走れるようになった3つのストーリー
1つ目はインジェクターの技術革新だ。
インジェクターとはエンジンの中で燃料を噴射する装置である。ガソリンエンジンでは液体であるガソリンを微粒子にしてエンジン内に噴射する。
今回の水素エンジンの燃料は“気体”である。その水素を効率よく、安定して燃焼するように噴射する技術を苦心の末に見つけ出せたということである。
この技術を担ってきたのが、インジェクターの開発をずっと続けてきたデンソーである。カーボンニュートラルという言葉を今ほど耳にしない頃から、デンソーのエンジニアたちは開発を続けていた。
「壊れても、壊れても、諦めずに一緒に挑み続けてくれたデンソーの皆さんのおかげです」と伊東主査は今までの努力に感謝の言葉も述べていた。
デンソーのインジェクターと、トヨタが持っていた直噴エンジンの技術が組み合わさることで、今まで困難だった燃焼時の温度管理が安定し、24時間レースへの挑戦が夢ではなくなってきたという。
MIRAIがあったからできました
2つ目は“水素搭載の技術”である。これについても伊東主査は「MIRAIの水素タンクの技術があったおかげ」と話していた。
高圧で水素を貯めるタンクを安全に車載し、燃料として送り込む…。これは初代、2代目と続くMIRAIの進化とともにトヨタの中で進められてきた。
水素と酸素を反応させて起こした電気を動力源とするMIRAIと、水素を燃焼させる水素エンジンとでは、水素の使い方は異なるが、搭載する技術は、MIRAIのものが、そのまま生かせたということである。
実際に、今回の参戦車両を見てみると、後席があるはずのスペースに、タンク4本が所狭しと並べられている。
MIRAIではサイズの異なる大・中・小のタンク計3本が搭載されているが、今回の参戦車両では計4本が搭載されている。MIRAIの中サイズを2本そのまま使い、それを少し短くしたものをもう2本とのことだ。容量にすると、MIRAIが141リットル、今回が180リットル。1回の水素充填でなるべく長い距離を走れるように、できる限りのタンクをクルマに詰め込んだ。
すでに市販されているMIRAIのタンクは、開発時に衝突実験などをクリアし、安全性も確保されている。しかし“レース”は“街乗り”と環境が大きく異なってくる。
レースでは常に全開走行を続ける。全開走行をしていると水素タンクの中の温度はどんどん下がってくるそうだ。
街乗りのクルマの開発でも、ある程度の厳しい環境でのテストはしているが、24時間耐久レースとなると、その範囲を超えてくる。今までMIRAIなど燃料電池車(FCEV)のためにタンクを開発してきたエンジニアたちも「24時間レースは未知の領域への挑戦」と言っていた。
また、レースを走るためには“高速で衝突”という事態も想定しなくてはならない。自分がぶつからなくても、周囲で接触があったら、その破片が飛んでくることも想定される。そうした不測の事態にも備えなくてはならない。
そうした事態に向け、開発段階で、ある実験をしていたという。
それは「ペネトレーションテスト」というもので、鋭利な部品が高速で突き刺さるケースを想定したテストということだった。映像にある通り“弾丸のようなもの”が高速で発射され、それをタンクが受けとめる。それでも安全性が保たれているかという実験である。
車両を見てみると分かりやすい対策も施されている。4本のタンクが積まれた部分を見てみると、タンクの周りをカーボンの板が覆っている。こうした物理的な安全対策も施されていた。
しかし、このカーボン板もあり、ルームミラーによる後方視界はゼロになっている。プロドライバーが乗る本格的なレーシングカーでは、よくあることだが、今回はモリゾウのように、プロではないドライバー(業界ではジェントルマンドライバーという)が乗るレースである。
聞いてみたところ、このテストでは、まだ装備されていなかったが、カメラをつけてモニターで後方確認ができるようにするそうだ。
GRヤリスを鍛えてきたからこそ熱くても耐えられる…
3つ目は、エンジンそのもののストーリーである。
GRヤリスは、そもそもモータースポーツで勝つためにつくられたクルマであった。
「市販のクルマが先にあって、それを改造してモータースポーツに挑戦する」というのが“今までの”トヨタのやり方であった。それを、WRC再参戦を機に、豊田社長が自らの行動で変えてきた。
まず、モータースポーツで勝てるクルマを開発する。それを、お客様が乗れるような市販車にしていく。GRヤリスは、まさにそんなクルマだ。
さらに、GRヤリスは生産・販売が開始されてからも耐久レースなどに出続け、“壊しては直す”を繰り返し、日々進化し続けている。それが“今の”トヨタのやり方になってきている。
GRヤリスの“戦うためのエンジン”は、高温、高圧、高回転に強い。その技術があったから、今回、水素エンジンにチャレンジするときも、やりやすかったということであった。
この話を聞くと、WRC参戦から水素エンジンまで、トヨタのさまざまな取り組みは、どこか一つの軸でつながっていると思えてくる。
レーシングカーってなるべく軽くするんじゃないの?
今回の水素エンジンカローラと、他の参戦車両を見比べると、明らかに違うのは、やはり後席を埋め尽くすタンクである。その重量を聞いてみると4本合計で100kgを悠に超えるそうだ。レースで、これを背負って走るのは明らかに不利である。
通常、レース車両は、速く走るため、燃費を良くするため、徹底的に軽量化を図る。レース車両をのぞき込むと、快適装備は全て外され、鉄板むき出しというのが当たり前だ。
今回も外せる部品は全て外されている。しかしながら、逆に、普段は見慣れない計測器が多数取り付けられていた。これらの計測器が、今回の参戦の目的を象徴しているように思えた。
街や普通のテストコースを走るだけでは得られない“厳しい環境”がサーキットにはある。この新技術に、どんなトラブルが襲いかかるかわからないが、それらに即座に対応して走り続けなければならない。
やっとスタートラインについた水素エンジン技術を、世の中の役に立つ技術に高めていくための実験場として今回の24時間レース参戦があるということだ。
4月22日の会見で、このプロジェクトを統括する佐藤恒治プレジデントもこのように述べていた。
佐藤プレジデント
やっぱり、モータースポーツでの(開発の)時間軸は圧倒的に早くて、アジャイルです。壊れないことを確認するのではなく、“壊しきる”までやるので、限界が本当にわかる。
そういう場で、このような未来の技術に取り組む。水素は課題が多いので、そう簡単に手の内には入らないんですね。
そんな技術を現実のものにしていくためには、時間軸が早いところに身をおいて、どんどん鍛えていく。「そうしないと未来は近づいてはこないぞ」と言われたんだと思いました。
エンジニアたちの想い
テストの最後のミーティングで、水素エンジンカローラを担当する坂本チーフエンジニアが、テストに携わったメンバーに感謝の言葉を述べていた。
坂本チーフエンジニア
このクルマを通常ではありえない短期間で完成させ、テストを迎えられたのも、多くの関係者に水素エンジンという意義を共感していただき、一生懸命にやっていただけたおかげだと思っています。
自分も、このクルマを担当するようになり、単なる水素のクルマをつくっているわけでなく、それがつくる未来がどういうものか考えるようになりました。
このクルマのテストは未来に対する課題抽出そのものです。ここまで大きなトラブルもなく、クルマを走らせることができたのも、みんなの想いが一つになったからだと思っています。
開発に関わる全ての人が同じ未来を夢を見ることができれば、幸せな仕事ができるんじゃないかと思っています。この仕事ができることに感謝しつつ、一致団結してやっていけたらと思います。
24時間レース本番でトラブルが出ないわけがない。それでも彼らは「24時間走り続けたい…」「1mでも1秒でも長く走り続けたい…」「多くのデータを残して、未来につなげたい…」、そんな気持ちでトラブルを乗り越えようとするだろう。彼らは、単に水素エンジンをつくっているのではなく、それがつくる未来に向けた挑戦を続けている。
次回は、ドライバーのインプレッションを中心に、水素エンジンが、どんなクルマに仕上がっているかを伝えていきたい。
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