コラム
2019.10.02
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Athlete Stories 山本 聖途選手「這い上がった先で、人生を変える何かを掴みたい」

2019.10.02

今年の4月初旬、新学期を迎えた日本体育大学 健志台キャンパス(神奈川県横浜市)へ。今回取材するのはオリンピックに2大会連続で出場した棒高跳のトップアスリート、山本 聖途(27歳、スポーツ強化・地域貢献室)。大勢の学生たちと一緒に練習に励む山本を訪ねた。

※本記事は、トヨタグローバルニュースルームに2019年10月2日に掲載されたものです

今年の4月初旬、新学期を迎えた日本体育大学 健志台キャンパス(神奈川県横浜市)へ。今回取材するのはオリンピックに2大会連続で出場した棒高跳のトップアスリート、山本 聖途(27歳、スポーツ強化・地域貢献室)。大勢の学生たちと一緒に練習に励む山本を訪ねた。

棒高跳との出会い

山本は愛知県出身。父は元短距離選手、母親は元跳躍選手という両親の間に三男として生まれた。兄弟と一緒に子供のころから色々なスポーツに接し、中でも夢中になったのはサッカー。当時の憧れは田中マルクス闘莉王(トゥーリオ)選手で、プロになることが夢だった。

しかし、進学した中学校にはサッカー部がなく、悩んだ結果、走ることが好きだったため陸上部に入って長距離を選択。サッカーはクラブチームで続けることにした。そして、中学2年生の夏、陸上大会で訪れた地元の高校で棒高跳と出会った。

「父親が高校の陸上部のコーチをしていて、監督や他のコーチに小さい時から可愛がってもらっていました。その監督から棒高跳勧められたんです。同じ風景を見ながらグランドをずっと走るのが退屈で、長距離は合わないと思い始めていたところでした。」

誘われた次の日に高校の練習に参加し、初めて棒高跳を目にした。

「実際に先輩たちが跳んでいる姿を見て、衝撃を受けました。棒一本ですごく高く・・・まだ身長が小さかった僕にとってはすごい高さを跳んでいて、その瞬間に憧れを抱きました。」

一瞬で心を奪われた山本はサッカーをすっぱりと辞め、棒高跳に夢中になった。棒高跳は、助走で得たエネルギーと自らの体重でポールをしならせ、その反発力を使って高く跳ぶ能力を競う。高校1年生までは体が小さくて記録が伸びなかったが、2年生になると身長が伸びて(現在は181cmの長身)ポールがしなるようになり、“跳ぶ”という感覚をつかみ始めた。

すると、憧れだった先輩の記録を抜き、目標は全国で勝つことに。高校3年生でインターハイに出場し6位入賞。国体では2位に入るまでの急成長を見せた。

初めての大舞台

地元の中京大学へ進学し、1年生からインカレ(全日本大学選手権)に出場。自己ベストも5m31と高校時代の記録から一気に30cmも更新し、周りから一目置かれる存在になった。伸び悩んだ時期もあったが、自分とトップの選手の跳躍の映像を見比べて研究するなど、客観的に自分を見て練習メニューを組み上げ、着実に記録を伸ばしていった。

「大学3年生の4月の大会で5m51を跳んだんです。オリンピックの参加標準記録まであと9cm。それまではまったく意識していなかったけど、一気に視野に入ってきました。」

その後、参加標準記録をクリア。6月の日本選手権で、当時の日本記録保持者を破ってシニアの大会で初優勝し、ロンドン2012オリンピックの代表に選出された。しかし、代表決定後は、相次ぐ取材の対応で気が休まらず、オリンピックが初の海外遠征だった山本は、現地でも時差や言葉、食事の違いに戸惑い、不安定な精神状態のまま本番を迎えてしまった。

「海外では試合の進め方も違ったこともあり、自分の名前を呼ばれても分からないくらいパニックになっていました。例えば、助走距離を計るためにメジャーがあるんですが、海外ではフィート表記で・・・(メートルからフィートへの換算ができずに)あたふたしている間に撤去されてしまって、勘で決めた位置からスタートせざるを得ませんでした。」

助走距離のずれは跳躍に大きく影響する。普段であれば余裕であろう5m35を3回失敗し、記録を残すことができなかった。

「5分くらいで終わってしまいました。頭の中が真っ白で、自分を客観視することもできていなかったし・・・あれでは跳べるものも跳べないですね。」

ここまで順調に記録を伸ばしてきた山本は、初めて悔しさを味わい、自らの力不足、準備不足を身に沁みて感じた。跳躍の技術以前に、海外という場に慣れなければ戦えない。その年の冬、単身スウェーデンに渡った。

「オリンピックでの経験を、少しずつでも自分のものにしたいと思いました。海外のコーチに指導をしてもらって、海外の選手とコミュニケーションをとって・・・それが正解だったかはわらかないですけど。棒高跳が好きだったので、(初めての海外生活は)まったく苦にはならなくて、むしろ刺激があって楽しかったです。」

そして、1年後。ロシア・モスクワで行われた世界陸上で再び世界の大舞台に立った。そこで5m75(自己ベストタイ)を記録し、日本勢過去最高の6位入賞という快挙を成し遂げた。

1年の間に日本代表であることへの自覚と自信を持ち、それに恥じない準備をしてきた努力が実を結んだ瞬間だった。再び順調に走り始めたかのように見えた山本だったが、その影では身体が悲鳴をあげていた。

アスリート社員としての責任

2014年、トヨタに入社し母校の中京大学に拠点を置いたが、世界陸上前から感じていた腰の痛みが悪化し、練習もままならない状況に陥っていた。だが、アスリートとして入社した以上、試合に出て結果を残し、日本代表に選ばれ続けなければという強い責任感から、山本の頭に休養を取るという選択肢はなかった。

「学生のころは楽しくできればいいって思っていましたが、競技をしてお給料をもらっているので、結果を残さなければという思いが強くて。でも、練習ができていないのに、跳べるわけもなく・・・競技人生で1番辛かった時期ですね。」

しかし、その間も日本代表に選ばれ続けるだけの結果は残している。周囲の期待に応えようと、山本が自らに課しているレベルは大変厳しいものだった。

シーズンが終わった社会人1年目の冬。精密検査を受け、「腰椎分離症」と診断された。腰椎の後方部分に亀裂が入り2つに分離した状態で、スポーツの練習などで繰り返し腰を反らしたりすることで起こる。効果的な治療方法が見つからず悩む山本を救ったのは、元ハンマー投選手の室伏 広治氏が中京大学で立ち上げた、トップアスリート育成事業だった。

アスリートのケガの予防・回復、動作改善、運動能力向上を、年間を通じて支援する仕組みで、アメリカの有名なトレーニングサービス提供会社の最先端のトレーニングを取り入れている。トレーナーの指導で身体のバランスを一から見直し、腰周りの筋力強化を中心に、約1年半もの期間をかけて地道に身体づくり取り組んだ。

「食事や睡眠、休日の過ごし方まで、生活をすべて見直しました。リオ2016に向けてやれることは全部やろうって思って。アメリカのトレーニング施設にも1カ月間滞在して、徹底的に身体づくりをしました。」

ロンドンで味わった悔しさと、次のオリンピックに賭ける強い決意で故障を乗り越え、リオ2016を迎えた。

二度目の挑戦

やれることはすべてやってきた。その自負と自信を持って臨んだ二度目のオリンピック。現地入りし、試合直前の練習でも好調だったが、思わぬ落とし穴が待っていた。

「助走位置に立った途端、4年前のロンドンのことがふと頭に浮かんでしまって・・・身体が一気に萎縮して、思ったとおりに動けなくなってしまいました。」

ロンドン2012での失敗は、想像以上に強いトラウマとなっていた。1本目を失敗して更にパニックになり、心も身体もコントロールできない状態に陥ってしまった。結果、記録なしで予選敗退。すべてを賭けてきた山本にとっては絶望的な結果だった。

「一気に自信をなくして、あんなに好きだった棒高跳が好きじゃなくなってしまいました。やれることをやってきてこの結果で、周りからの期待にも応えられないし、もうやめようと思いました。」

翌日、専任コーチとして帯同していた小林(日本体育大学準教授/棒高跳の前日本記録保持者)に引退の意思を伝えた。専任コーチではあったものの当時は拠点が離れており、試合や合宿・遠征の時に指導を受けているという関係だったため、了承してくれると予想していた。

しかし、予想に反して「今回の結果で満足しているのか?」と問われ、自信を持って答えることができなかった。考え込む山本に対して、コーチの小林はこうたたみ掛けた。

「とりあえず、次の試合をエントリーしておいたから。全部ぶつけて、いい結果を出してから気持ちよく終わろう。もし、聖途がその後も競技を続けるなら、日本でお前のレベルを見れるやつは俺しかいないから(指導してやる)。」

この言葉が、棒高跳に背を向けようとしていた山本の心を動かした。

小林 史明コーチ(日本体育大学準教授)

「今のように親密な関係じゃなかったのに、そこまで言ってくれたことにウルウルきてしまって・・・すごく救われました。小林さんと話をしていなかったら、今競技をしていないし、トヨタも辞めていると思います。」

山本の可能性を見出していた小林は、入社当時から自分のもとに来いと伝えていた。だが、故障していたことや、これまで本格的な指導者をつけなくてもやってこられたという自負もあり、ずっと愛知県を拠点としていた。このリオでの出来事をきっかけに、小林がいる神奈川県の日本体育大学に練習拠点を移した。

「最初は不安でした。今までのスタイルを捨てて一からやると言われていたし、良いと思っていた技術が、小林さんにとっては悪いものだったこともあったので・・・それでも、自分の持ち味を殺してでも小林さんの言うことを理解して、自分のものにしようとやってきました。」

共に過ごす中で、海外のコーチと情報交換をしたり、他の選手の動きを見て学ぶ小林の姿を見てきた山本は、言葉数が少ない中にも、自分に注いでくれる指導者としての情熱を感じ取っていたのだろう。この2年半で、二人三脚の師弟関係を築き上げていた。

三度目のオリンピックへ

2人が目標とする東京2020まで、あと僅か。小林によると、本格的な指導を始めてから週単位で練習メニューを組み、必ず週に一度は跳ぶようにしているという。(筆者は毎日跳んでいるものだと思っていたが・・・)

「棒高跳は技術種目なので、試合がなくても定期的に跳ばないといけない。以前はそれができていなくて不安定だった。悪く言えば一発屋だったんですよね(笑)。どんなに疲れていてもその日に合わせて調整してこいと言っています。それが試合での調整力にも繋がる。今は、大事な試合でちゃんと結果を出せるようになっています。」

昨年のアジア競技大会では、大会新記録の5m70で見事金メダルを獲得。山本自身も「いい方向に向かっている」と、自らの変化・成長を感じていた。最後に三度目のオリンピックに対する想いを話してくれた。

「挫折して這い上がってきて、その裏には小林さんや家族の支えがあって。棒高跳と出会うきっかけをくれた高校の監督にメダルをかけてあげたいという想いもあるし、僕の知らないところで応援してくれている人たちもいる。そういう人たちの期待に応えたいです。それが自分のためにもなるし、東京2020の結果でその後の人生も変わるんじゃないかと思います。」

母国で開催されるが故のプレッシャーもあるだろう。二度の挫折を経て成長した山本が、そこでどんな跳躍を見せてくれるか。今からとても楽しみにしている。

(サムネイル写真提供 : Getty Images)

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