トヨタの工場の歩みと、未来への挑戦を紹介する連載「トヨタ工場の継承と進化」。今回は、鋳造と機械加工でトヨタの主力車種を支えてきた明知工場。2025年、半世紀にわたる鋳造の歴史に幕を閉じた明知で、受け継がれてきたものとは――。
モータリゼーションが生んだ、もう一つの鋳造工場
愛知県みよし市の農村地帯に、トヨタの鋳造工場が誕生したのは1973年のこと。モータリゼーションが急速に進む一方、公害問題が深刻な社会問題となっていた時代だ。
トヨタ自動車の鋳造部品生産は、1938年に操業を開始した本社工場に遡る。だが1960年代後半、自動車需要の急拡大により鋳造部品の安定確保が大きな経営課題となる。加えて、本社の鋳物工場は老朽化が進んでいた。
鋳造では、砂でつくった型に溶かした金属を流し込み、固まった後に型を崩して製品を取り出す。型ばらしや砂落としなどの工程では細かな砂や粉が舞いやすく、粉じん対策は鋳物工場にとって避けて通れない課題だった。
折しも1970年、第64回国会は「公害国会」と称されるほど環境問題が社会の焦点となり、「公害対策基本法」の抜本的な改正が行われた時代である。工業化の急速な進展がもたらした大気汚染や水質汚濁が深刻な社会問題として認識されるなか、新たな工場建設にあたってはその対応が強く求められた。
1971年3月、愛知県から内陸工業用地として造成されていた三好町の土地を新たな鋳造拠点用地として譲り受け、同年5月に「明知工場建設委員会」が設置される。6月には三好町との間で公害防止協定が締結され、「無公害工場」を目指す工場建設が動き出した。このように、明知(みょうち)工場は「粉じんも騒音も出さない工場をつくる」という、地域への約束とともに産声を上げたトヨタの7番目の工場である。
1973年2月に原動力設備、6月には第1鋳物工場が完成し、明知工場は操業を開始した。建設方針として掲げられたのは「良好な作業環境」「十分な公害対策」、そして「高い生産性」という3つの柱である。従来の鋳物工場のあり方を一新し、将来を先取りした画期的な工場をつくる。それが明知工場に課せられた使命だった。
トヨタ初の陸屋根無窓式工場
当時、多くの鋳造工場は「ノコギリ屋根」と呼ばれる、上部に開放式の窓を備えた構造が一般的だった。これに対し明知工場が採用したのは、屋根が平面で窓を持たない、いわゆる陸屋根の無窓式(むそうしき)工場である。トヨタの工場としては初めての試みだった。
1982年に入社し、明知鋳造部、工務部での環境設備の維持管理・改善を経て、プラント環境技術部(現 プラント・環境生技部)でISO認証取得にも携わってきた籏寿は、明知工場の革新性を
こう説明する。
籏
排気はすべて集じん機でろ過してから外に出す構造ですので、原則として粉じんは排出しないことになります。空調についても、従来の局所空調ではなく、建屋全体を空調する「全体空調」という、当時としては珍しいシステムが採用されました。
建屋に集じん機や脱臭装置を集中配置し、工場内を負圧に制御することで、扉が開いても粉じんが外へ漏れない構造を目指したのである。
世界一レベルの鋳造工場へ
1973年に操業を開始した明知工場だが、1977年には第2鋳造工場が建設され、シリンダーブロック専用ラインと小物部品用の鋳鉄ラインが増強された。これにより同年2月、本社の鋳物工場はその役割を終え、閉鎖される。1981年7月には第3鋳造工場が操業を開始し、アルミ部品のシリンダーヘッド生産体制が強化された。
1989年に地鎮祭が行われた機械工場では、翌年から順次ラインが立ち上がり、1992年に全棟が完成。セルシオ用ステアリングコラム、クラウン マジェスタ、マークII用アクスルといった部品の加工・組付ラインが稼働し、明知工場はトヨタのユニット工場のなかでもその存在感を高めていく。
1977年に入社し、後年に鋳造部長を務めたOBの村井茂さんは、明知工場の最盛期についてこう語る。
村井さん
1990年頃の話ですが、シリンダーブロックやデフケースなど大小さまざまな部品を月に1万3000トン生産する世界最大級の鋳造工場でした。当時は、本当に工場中がにぎわっていました。
1975年に入社し、村井さんの部下として鋳造一筋にキャリアを重ねてきた元鋳造部課長の小柳克栄さんも、その規模をこう証言する。
小柳さん
私が明知工場で仕事を始めた頃は、第1鋳造工場の建屋しかありませんでした。それが全盛期には、第1鋳造工場に4本、第2鋳造工場に5本、合わせて9本もの鋳鉄ラインが稼働するまでに至ったんです。ここまでの工場になったんだなと感慨深いものがありました。
「無公害工場」を掲げて誕生した工場ではあったが、当時の集じん機の性能には限界があり、工場内の粉じん環境は現在とは大きく異なっていた。1990年の入社と同時に明知工場に配属され、現在は工場長を務める高橋一彰は、当時の現場をこう振り返る。
高橋工場長
大学を卒業してすぐに入ってきた当時、明知工場の鋳造の環境には正直、驚かされました。鼻の中まで真っ黒になり、髪もザラザラになるような現場で、ここで働く方々はすごいなというのが第一印象でした。
当時、1400℃の溶解炉では、不純物を取り除く「のろかき」と呼ばれる作業があった。鉄の棒を使い、手作業で不純物をかき出すこの作業は、夏場には汗だくになるほどの過酷さだったという。現場では水分補給はもちろん、塩分補給のための塩や梅干しも欠かせなかった。
安全管理についても、今ほど整っていなかった時代特有の厳しさがあった。少しでも気が緩むと先輩から厳しい叱責が飛ぶこともあったというが、「不思議なもので、1400℃の溶けた鉄を扱う職場というのは、人間関係がとても温かいんです。いま振り返っても、めんどう見のよさは強く感じますね」と、高橋工場長は振り返る。
「マスクレス」への挑戦
明知工場の歴史において、最大の転換点となったのが、1998年から2001年にかけて展開された「マスクレス活動」である。
シリンダーブロックの製造工程には、鋳造後の部品に細かい鉄球を打ち付けて表面に付着した砂型の砂を落とす「ショットブラスト」という作業がある。鉄球や砂が外に漏れないよう設備を密閉式の囲いで覆っていたが、この構造が皮肉にも別の問題を生んでいたと村井さん、小柳さんは振り返る。
「囲ってしまうと、中が見えなくなってしまうんです。ひどい砂山の中で人が動いている状況で、設備も劣化するし、トラブルも多い。現場の人に苦労をかけていました。」(村井さん)
「囲まれた中は、本当に汚いんです。砂も山積し、ショット玉がこぼれて散らかっている。地下6メートルほどのピットにも砂やショット玉が山になっていて、砂漠みたいな状態でした。」(小柳さん)
人目が届かず、安全管理が行き届かない「裏通り」と化したその場所では、安全柵が外れたままになっていても管理者すら気づかない状況だったという。
この状況を目の当たりにして、村井さんは決断する。「囲いなんか外してしまいましょう」。こうして、現場を主体としたQC(クオリティコントロール)サークルをベースに、「工場内で防塵マスクをしなくてもよい作業環境の実現」をめざす活動、通称「マスクレス活動」が始まった。
活動は3年計画で進められた。1年目は徹底的な手作業による清掃である。鋳造部の全員が、普段は立ち入らない設備の裏側まで、砂と汗にまみれながら磨き上げた。2年目には粉じんの発生源そのものを抑える対策に着手する。当時はまだ十分な予算がつかず、現場の知恵で乗り切ったという。
村井さん
ちょうどダンボールプラスチックという素材が出始めた頃でした。それを自分たちでカッターナイフで切って、粉じんを構内に広げないためのシュートやカバーをつくったんです。効果が確認できれば、鉄板などで恒久的な対策に切り替えていきました。
3年目には、本格的な恒久対策が一気に進められた。なかでも象徴的な成果が、溶湯(溶けた鉄)を運ぶクレーンそのものに集じん機とダクトを搭載するという、現場発のアイデアである。建屋全体に散った粉じんを天井で集じんしても、マスクが不要なほどクリーンな空間は実現できない。であれば、そもそも散らないようにすればいい。要は発生源対策である。
この発明は、経済産業省の経済産業局長賞を受賞している。活動の根底にあったのは、トヨタ生産方式の原点とされる「人間性尊重」の思想だった。「人間というのは考える頭を持っているんです。現場で働いている人が、何が問題かを最も分かっている。どうしたらいいかも分かっている。その知恵を生かさなければいけません。それが現場を強くするんです」と村井さんは振り返る。
村井さんが定めた「躊躇せず、まず止める」「使ったものは元に戻す」「歩行帯を歩く、保護具を正しく着用する」という「爽やか職場の三原則」は、業務命令として徹底された。
なかでも第一の「まず止める」は、問題が生じた際にはラインを止めることを躊躇するな、という意味だ。この原則は、鋳造ラインがシャットダウンした現在も、後輩たちの間で語り継がれているという。
2001年末、粉じん濃度は0.2mg/m³以下という水準に達し、ほぼマスクレスの実現にこぎつけた。これは、一般的な学校の体育館ほどの空間(約5,000m³)に含まれる粉じんをすべて集めても、重さにして1円玉1枚分ほどという濃度で、当時の管理基準と比べても、極めて低い水準だった。