「次の道を発明しよう」――。豊田章男会長が、グループ責任者として各社トップに語ったビジョン。この言葉に込めた想いとは。
「私自身が責任者として、グループの変革をリードしてまいりますので、皆様のご支援をお願いいたします」
豊田章男会長は1月30日、集まった報道陣を前に、トヨタグループを率いていく決意を表明した。
この記者会見に先立ち、同じトヨタ産業技術記念館(名古屋市西区)で、グループ17社のトップや現場のリーダーらを前にビジョン説明会が開催された。
そこでは、会見にはなかった先人への想い、クルマ屋の本分、そして未来に必要とされるトヨタグループになるための心構えが語られた。
次の一歩を約束する日に
豊田会長
皆さん、おはようございます。豊田章男でございます。
お集まりいただき、ありがとうございます。
今日このトヨタグループの歴史が詰まった産業技術記念館にお越しいただいた理由は一つ、私たちのこれからについて、皆さんと一緒に考えたかったからです。
歴史を紐解いてみますと、終戦後わずか10日ほどの1945年8月27日。
トヨタグループの持株会社であった豊田産業の戦後初の取締役会が開催されました。
集まったメンバーはこちらです。
出席者全員が、創業期を支えてこられた方々です。
この方々が、戦後間もない時期に集まり、何を議論したのか。
当時のトヨタグループは、繊維産業から、自動車、さらには航空機の製造を中心とする機械製造に事業分野を大きくシフトしていました。
終戦により、機械製造関連の需要を一挙に失い、戦後、グループをどのように運営していくかが喫緊の課題となっていたのです。
この取締役会は、トヨタグループ全体の方向性を決める重大な意義を持っていました。
取締役会が開催された場所は、豊田産業の本社事務所ではなく、グループ全体の精神的支柱であった豊田自動織機製作所でした。
危機に直面したとき、みんなで集まって、原点に立ち戻る。
先人たちは、そのようにして数多の危機を乗り越えてきたのだと思います。
そして今の私たちにも、同じことが必要なのではないでしょうか。
今日は、トヨタグループにとって、次の一歩を約束する日にしたい、そう願って、私はここに立っています。
まずは、こちらをご覧ください。
発明への情熱と姿勢こそ、トヨタグループの原点
これは1895年豊田商店の設立に始まる、トヨタグループの系譜図です。
「苦労する母親を少しでもラクにしたい」
機織り機の研究に没頭した豊田佐吉は、1890年、「豊田式木製人力織機」を発明します。
誰かを想い、学び、技を磨き、ものをつくり、人を笑顔にする。
発明への情熱と姿勢こそ、トヨタグループの原点であると私は思います。
その後、豊田紡織、豊田自動織機製作所の設立へと繋がり、系譜図はご覧のように「縦」に伸びていきます。
1930年代に入ると、豊田喜一郎が立ち上がります。
「ただ自動車をつくるのではない。日本人の頭と腕で、日本に自動車工業をつくらねばならない」
当時の日本の工業は、技術水準において欧米に大きな遅れをとっていました。
そこで自動車を国産化することで、この国の産業のモデルチェンジに臨みます。
喜一郎は、自動車だけではなく、飛行機の研究もしていました。
息子の章一郎には、「火事でも燃えない家をつくれ」と言ったそうです。
喜一郎が創りたかったもの。
それは、日本に生きる人々の幸せであり、次世代が夢を描ける未来だったのだと思います。
もちろん自動車も未来も、一人では創れません。
共に苦労し、共に励まし、共に高め合う仲間が必要です。
鉄、ゴム、電子、多くの会社がトヨタと歩み始めます。
豊田と名の付く会社だけではありません。
創業のきっかけは違えど「自動車産業を興そう」と志を同じくする仲間とも、トヨタは力を合わせました。
独自の個性・強みを持つ会社との提携が進み、トヨタグループの系譜図は「横」に広がっていきます。