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トヨタはなぜ家をつくるのか? クルマともつながる原点に迫る

2026.09.19

トヨタがなぜ家をつくるのか。その答えは、クルマづくりの原点と深くつながっている。トヨタの住宅事業、50年の軌跡。

2026年1月7日、トヨタ自動車の年頭あいさつで、豊田章男会長は書き初めに「場」の一字を選んだことを従業員に話した。現場、工場、市場——09年の社長就任以来、あらゆる「場」が主戦場であり修羅場だったと振り返り、流した映像では、現在のトヨタホームにつながるトヨタ自動車の住宅事業に込めた祖父・喜一郎らの想いが紹介された。

クルマと住宅。一見かけ離れた2つの事業。だが、その夢の根っこは同じだと、豊田会長は語っている。

今の私たちはすぐ自動車とか住宅とか事業別に分けたがりますが、当時喜一郎が描いていた夢には、そんな区分けはなかったわけです。

喜一郎がつくろうとしたもの。

それは「未来のモビリティ社会」という「場」だったのだと思います。

喜一郎が描いた夢の軌跡は、そのままトヨタホームの歴史とも重なる。本稿では、トヨタ自動車の住宅事業の変遷を振り返りたい。

災禍から始まった住宅の夢

さて、トヨタホームではトヨタ自動車工業(トヨタ自工)に住宅事業部が新設された1975年を創業年と定め、2025年に50周年を迎えている。ただその原点は、年頭あいさつでもあったように、さらに50年以上前に見ることができる。

1923年9月、相模湾北西部を震源とする推定マグニチュード7.9の地震が日本を襲う。

関東大震災。内閣府によると、全壊・全焼した住家は約29万棟とされており、これは1995年の阪神淡路大震災(約11万棟)、2011年の東日本大震災(約12万棟)よりも多い。

当時56歳だった豊田佐吉は、壊滅的な被害を受けた街を目の当たりし、こんな言葉を残したとされている。

「木と紙の燃えやすい家はダメだ。これからは燃えない家を考えなければいけない」

この言葉は後年、焼け野原となった戦後の街を前に、息子・喜一郎に「人は皆、ある一定水準以上の住宅に住む権利を持つべきだ」という決意を固めさせた。

1946年3月、喜一郎はトヨタ自工の平山ガラス工場を転用し、鉄筋コンクリート部材の研究を開始。自動車と同じように、工場の流れ作業で型に入れてつくった部材を、建築現場で組み立てる方法を探った。

その構造体は「プレコン」と名付けられ、1950年の「ユタカプレコン株式会社(現・トヨタT&S建設)」設立へとつながっていく。

手続きを行ったのは、経営陣の一人として参画した息子・章一郎だった。

戦前からヘリコプターの研究もしていた喜一郎は、章一郎にこんな夢を語っていたという。

不燃性の住宅を各都市にたくさん建て、その平らな屋上から自家用ヘリコプターでいろんなところへ飛んでいく。このような世界が必ず近い将来にくる。

だが、ユタカプレコン設立から2年後、喜一郎は志半ばで永眠。その遺志は章一郎らに引き継がれる。

クルマづくりの技術を家づくりへ

1960年代に入ると、モータリゼーションの進展に伴い、自動車の需要は急速に伸びていく。それでも当時の経営陣は、市場の頭打ちを懸念し、自動車に代わる新事業を模索。条件には次の3つがあった。

①国民生活の向上に役立つ事業であること
②販売店経営の多角化としてもふさわしい事業であること
③オールトヨタが持つ技術力・資金力・販売力を活かせる事業であること

これらを満たす候補として挙がったのが「船舶」「航空」そして「住宅」だった。

1968年、全豊田技術会議で佐吉・喜一郎の強い想いがあったことと、先の条件が重なったことなどから、住宅事業の研究を進めることが決定。翌年、トヨタ自工に住宅研究・開発グループ、トヨタ自動車販売(トヨタ自販)に調査企画グループが発足した。両グループの統括責任者に章一郎が就いた。

創業50周年を記念して編纂された『50年の軌跡 HISTORY OF TOYOTA HOME』には、当時の基本的な考え方として「長年、自動車製造の分野で培ってきた技術力をフルに活用して良品廉価な生活空間を提供し、豊かな社会の建設に貢献するとともに、総合産業として国家経済に寄与すること」とある。

当初から、家づくりとクルマづくりを分けて考えるのではなく、クルマづくりで磨いた技術が家づくりにも使えると考えられていた。

そのため、章一郎以下工販のメンバーは、住宅業界だけでなく、造船や飛行機の製造工場も視察。国内外を奔走した末、自動車のモノコック構造と同様のユニット工法*に行きつく。
*建物をいくつかの箱型のユニット(部屋単位)に分け、工場で大部分を製造してから建設予定地に運び、組み立てる建築工法。

「クルマの中に、たくさんのヒントがあった」

「クルマの中に、たくさんのヒントがあった」

これは1977年に発売された戸建住宅、「トヨタホームJA型」のパンフレットに記された一文だ。

「トヨタホームJA型」のパンフレット

この一文が象徴するように、現在に至るまでトヨタホームの家づくりには、トヨタ自動車のクルマづくりの技術が随所に織り込まれている。

代表的なものの一つが「カチオン電着塗装」と言われる防錆塗装。塗料で満たしたプールに金属部品を浸し、電気の力で表面に均一な塗膜を形成することで部材をサビから守る技術だ。クルマは飛び石などによる傷にも耐えられるよう、建材に比べて厚めに塗られるのが通常だが、トヨタホームでは、クルマと同じ厚さで塗ることで、高い耐久力を持たせている。

また鉄骨一本一本ではなく、天井や床など主要な構造体まで組み上げた上で塗料に浸すため、塗装後の溶接による融解範囲を最小限にとどめている。その耐久年数は100年超という。

カチオン電着塗装で使われるプール。天井や床などの構造体がこの液体に浸かる

このほか、電気配線のワイヤーハーネス方式は自動車の配線技術を応用。床の振動を低減するダイナミックダンパーは、自動車の振動音対策を住宅に転用した世界初の制振技術だ。

新事業立ち上げの条件にあった「オールトヨタが持つ技術力を活かせる」ことについても、黎明期から見ることができる。

1982年に発売した「オーク」は、トヨタ2000GTの内・外装デザインを手がけた野崎喩氏によるデザイン。それだけではなく、ビルトインエアコンは日本電装(現デンソー)、浴室はトヨタ車体、開口部のアルミサッシやエクステリアはアイシン精機(現アイシン)と、トヨタグループの強みがいたるところに発揮されている。

「オーク」の開発には、トヨタグループの技術が集まっていた。画像左はトヨタ2000GTの内・外装デザインを手がけた野崎喩氏による住宅スケッチ。右上は、日本電装(現デンソー)によるビルトインエアコンを設置したリビング。同下はトヨタ車体、アイシン精機(現アイシン)の強みを生かした浴室

だがこうしたケースは、住宅という新たな地平を開拓しようとしたクルマ屋たちの、数多くの挑戦と失敗の上に生まれている。

1969年に完成した試作第1号は、自動車のボデー加工技術を活かして鉄板をプレスした構造だった。しかし、これは炎天下の車中で過ごすようなもの。ほかにも「洗える家」「ワックスがかけられる家」といった斬新なアイデアもあったが、いずれも商品化には至らなかった。

住宅事業部の誕生、工場生産へのこだわり

住宅事業の歴史に戻ろう。

1975年8月1日、トヨタ自工内に「住宅事業部」が組織される。事業化へ本格的に歩み始めると、同年12月に初の商品「トヨタオフィス&ショップ」を発売。77年には先述した通り、初の戸建住宅「トヨタホームJA型」が登場する。“トヨタホーム”という名称は、ブランド名から始まったのだった。

これらの商品は、本社技術部の一角にある外山工場や、関東自動車工業の田浦工場の一画で生産していた。カチオン電着塗装の設備が外山工場に導入されたのも、このころ。田浦工場は当時海上コンテナを生産していたことから、設備や人員が活用できるということで選ばれた。

外山工場での当時の作業の様子

風雨にさらされない工場生産では、建築部材が傷まず、従業員も安全かつ安定した環境で効率よく作業に従事できるというメリットがある。ロボットや機械を工程に組み込むことも容易なため、高精度で品質のばらつきも少ない。

「トヨタホームJA型」の企画書には「今後の労働力、特に熟練労働者の不足に対処するため(中略)良質の工業化住宅*を開発する」「生産性の向上をはかり、工数低減、特に現地工数を低減するため、工場生産化率を向上させ、あわせて品質管理を行いやすくする」とあり、半世紀近く前から労働力不足に備えた品質維持・向上策が考えられていた。
*工場生産による住宅。

現在トヨタホームでは、住宅全体の85%まで工場でつくり、残り15%が現地での組み上げ作業となっている。

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