暑さの残る9月のある日、朝7時45分。一台の青いプリウスがトヨタ自動車本社の駐車場に入ってきた。運転席に座っているのは、パラ陸上の佐藤 圭太選手(27歳、生技管理部)。
※本記事は、トヨタグローバルニュースルームに2018年12月17日に掲載されたものです
残暑の続く9月のある日、朝7時45分。一台の青いプリウスがトヨタ自動車本社の駐車場に入ってきた。運転席に座っているのは、パラ陸上の佐藤 圭太選手(27歳、生産管理部)。
義足の陸上選手として、大学3年生の時にロンドン2012パラリンピックを経験。トヨタ入社後まもなく開催されたリオデジャネイロ2016パラリンピックでは、4×100mリレーで日本記録を更新して銅メダルを獲得。男子100mでは、11.77秒の自己ベストで日本記録を更新した。日本のパラ陸上を牽引するトップアスリートだ。
愛車を慣れた様子で駐車すると、運転席から佐藤が姿を現した。きびきび動く姿を見ていると、義足を付けていることを忘れてしまいそうだ。運転をする時は、義足の右足でアクセルペダルを、左足でブレーキペダルを踏む。
現在はシーズン中で、大きな競技大会を終えて久しぶりの出社日だった。今日一日、密着取材することを伝えると、爽やかな笑顔で応えてくれた。
義足になるということ
佐藤は静岡県出身。小学4年生からサッカーを始め、めきめき頭角をあらわし高校進学もサッカー推薦でほぼ決まりそうだった。そんな時、『ユーイング肉腫』という骨や軟部組織にがん(悪性肉腫)が発生する病気が佐藤を襲う。
がんは、右足のひざから足首までを結ぶ2本の骨のうち、外側の骨に見つかった。入院と同時に抗がん剤治療が始まり、佐藤はその強い副作用に耐え続けた。がんは徐々に小さくなり、完全に取り去るために手術を受けることが決まった。
がんの周辺組織だけを取り除き足を残すこともできたが、自ら切断することを選んだ。足を残すには骨を大きく切除する必要があり、骨の強度上、激しい運動は難しくなる。医師から「義足になってもスポーツは続けられる」と言われたことで、佐藤は腹を決めた。切断することに対しては、「そういうものなのかな」とあまり悲観的な気持ちにならなかったと話す。それ以上に『スポーツを続けたい』という強い想いがあった。
しかし、いざ義足での生活が始まると、歩くことはおろか立つことさえも難しい。「想像以上だった」。手術後しばらくは、足のむくみや腫れに悩まされたのに加え、切断面は皮膚が薄く、体重が掛かると骨に響く痛みを感じることもあった。精神的にも辛い日々が続く。
「義足がイヤになった時期もあった」。今まで健常者であると意識したこともなかったため、
突然『障がい者』としての扱いを受けることに違和感を持ち、「他人と違うことが何かいけないことのような気がした」と、障がいを受け入れることができなかった。義足であることを隠したい一心で、真夏でも長ズボンを履いた。義足は常に足を持ちあげながら歩く感覚。当時の佐藤にとって義足は、身体的にも精神的にもとても重たい存在だった。
走ることが純粋に楽しかった
高校に入学してからリハビリを兼ねて陸上を始めた。走ることはどのスポーツでも基本となるからだ。約半年間の入院生活で体力・筋力ともにゼロに等しい状態になっていたため、義足で走れるようになるまでには丸2年かかった。昔から俊足ではなかったが、当時を振り返り「風を切って走ることが純粋に楽しかった」と話す。
陸上部の仲間とは障がいの有無に関係なく付き合い、陸上を通じて自身も成長していると感じられた。スポーツをしている限り、何も変わっていないと実感できた。
高校3年生で出場した大会で、パラ個人種目の200mで日本新記録を更新。この頃、パラリンピックを意識し始めたのと同時に、他のパラアスリートとの交流も始まる。義足の陸上選手として日本人初のパラリンピック・メダリストとなった山本篤との出会いが、佐藤の意識を変えた。
義足を見てくれと言わんばかりの堂々たる姿が、「純粋にかっこよかった」と語る。義足を隠そうとしていた自分自身に対して、「良い意味で諦めることができた。もう足は生えてこないのだからと現実を受け止め、吹っ切ることができた」と言う。それからは半ズボンを履き、義足を隠さずに堂々と歩いた。パフォーマンスもメンタルも良い方向に変化していった。
社会に対する想い
パラリンピックを目指して入学した中京大学では、レベルの高い練習環境が佐藤を後押しし、記録を徐々に伸ばしていく。そして念願のロンドン2012パラリンピックに出場し、4×100mリレーで4位入賞。ひとつの夢が叶ったと喜ぶ中で、現地大会の盛り上がり、観客の多さ、海外の『スポーツを観る文化』に驚きを覚えた。
「日本の社会は障がいが身近ではない。良くも悪くも過敏に反応するところがある」と、以前佐藤は語っていた。自分も“パラ”アスリートであるから注目されていると思っている。
佐藤が英国陸上競技連盟ブリティッシュ・アスレチックス(British Athletics)のロゴを見せてくれた。そこには健常者のアスリートの他に、クルマ椅子と義足のアスリートも描かれている。まさに自身の目指す『共生社会』が表現されており、海外の障がいに対する分け隔てのない考えに感動したと言う。
佐藤には「オリンピック・パラリンピック競技大会を通じて社会を変えていきたい」という想いがある。選手としてのレベルアップはもちろんだが、2015年に国際オリンピック委員会、国際パラリンピック委員会のワールドワイドパートナーに就任したトヨタを見て、その想いを実現できるのはトヨタではないかと思い、2017年に入社を決めた。
入社当初は、トヨタ社内で示される「私たちの心構え」10項目のうち、「チャレンジ」、「謙虚・感謝」を強く意識していたが、現在は「現地現物」も大切だと感じている。技術者と触れ合う機会も増え、競技をする上でも「現場はどうなのか」と見る癖がついたそうだ。
話を聞いているうちに、昼食休憩のチャイムが鳴った。食堂で職場上司や同僚と一緒に過ごすと言うので、同行させてもらう。
今日のメインディッシュは魚。バランスの取れた食事を心掛けている。1日の食事は何回かに分けて食べるようにしており、1人暮らしのため、自炊も外食もする。休日は家で読書をしながら過ごすことが多い。趣味は温泉に行くことで、シーズン中は疲れた身体を癒し、オフでも講演や取材等で精力的に活動しているため、たまにはのんびりする時間が必要なのかもしれない。
シーズン中は、午前は職場での業務、午後からは母校の中京大学でトレーニングというスケジュール。この日は天気に恵まれず、室内でのトレーニングがメインとなった。
有酸素運動としてエアロバイクで身体を温めてから、マットを使用したストレッチと体幹を鍛えるメニューをこなしていく。更に強度の高い筋肉トレーニング時には、軽運動用の義足を着用する。自らねじを回して、義足の下部(足首の少し上あたり)をスポーツ用のブレードに付け替えた。
晴れ間が覗いてきたので、陸上トラックにて走行練習を行った。佐藤いわく、競技義足へのこだわりはアスリートにより様々だという。佐藤の求める義足に正解はまだ見つからないが、走りに違和感のないことを最優先している。より速く走ること、足の先までしっかりと力が伝わる『良い走り』ができることを追求している。
練習を終えて帰宅するのは夜9時頃。家に帰ると、義足を外す感覚は、服やメガネの時と何ら変わらない。装着中の圧迫感や足への負荷を考え、家にいる間はほとんど義足を外して過ごしている。
Start Your Impossible
佐藤は他人と違うことへの『違和感』を受け入れることで、義足である自分自身と向き合ってきた。健常者と変わらない生活を送る傍ら、障がい者と呼ばれることに疑問を持った。その経験から『障がいとは何か』『健常者・障がい者を区別するものは何か』を自分自身にも、周囲にも問い続けている。その問いに一人ひとりが考え、向き合うことで、佐藤の目指す「誰もが生きやすい」と感じる社会、すなわち『共生社会』を作っていけるのではないかと思う。
陸上競技を始めて早10年。スポーツを通じて自分自身が成長し、さらなる高みを目指して挑戦を続けてきた。「競技生活では苦しい時間の方が長いが、自分の限界を超えた瞬間に喜びを感じられる」と言う。その小さな喜びの積み重ねが、自己ベストに繋がっていく。さらに佐藤は続けて、「この世界は百分の一秒の勝負。距離にするとたった数センチだが、これを越えるために数年かけてやっていく」と語る。
佐藤は『100mを10秒台で走ること』を大きな目標としてずっと掲げている。東京2020パラリンピックでの目標達成を期待していいかと問うと、「はい!」と答えた。日々の鍛錬が後押ししているのだろうか。その姿は自信に満ち溢れていた。その時、佐藤が大歓声の中でトラックを走り抜け、1着でゴールするシーンが頭をよぎった。
東京2020パラリンピックまであと2年を切った。若いライバル選手の追い上げも気になるところだが、佐藤も静かに闘志を燃やしている。世界で活躍する従業員アスリートの佐藤をこれからも応援していく。
編集後記
佐藤選手の印象は、とにかく「デキた」人。誠実で落ち着きのある受け答えで、どんな時でも周りへの気遣いも忘れない。内に秘める強い想いは眼差しの強さからうかがい知れるが、表面的には非常にクールで、スマートだ。タンクトップと半ズボンのスポーツウェアで現われた時に初めて義足の姿を見たが、かっこよく凛々しかった。彼が山本篤選手と出会って変わったように、佐藤選手も多くの人に夢を与える存在だと感じた。東京2020に向けて、彼の背中を追っていきたい。