南アフリカトヨタ勤続13年のタイロン・ピレー選手は、リオデジャネイロ2016パラリンピック競技大会の砲丸投げで銅メダルを獲得しているパラアスリートだ。クリケットをこよなく愛し、子どもたちのよき指導者でもある。
※本記事は、トヨタグローバルニュースルームに2018年11月16日に掲載されたものです
南アフリカトヨタ勤続13年のタイロン・ピレー選手は、リオデジャネイロ2016パラリンピック競技大会の砲丸投げで銅メダルを獲得しているパラアスリートだ。クリケットをこよなく愛し、子供たちのよき指導者でもある。
彼とのインタビューは2018年9月に東京・水道橋にあるトヨタオフィスで行われた。
私たちの前に現れたタイロン選手は、岩のように大きく、その恵まれた体格から“無敵”にも思えた。タイロンは、3歳の頃から南アフリカの代表選手になることを夢見ていたという。
家族との絆
「私が生まれるとすぐに医者は私を別室に連れて行ってしまったそうです。母はそれですぐに気付いたんでしょうね、何か問題があると。その日、左足に異常があることを告げられました」
しかし、家族から特別扱いはなく、タイロンは健常者と同じように育てられたという。小さい頃、兄弟とサッカーをして遊んでいた時には、仲間たちからは他の子どもたちと同じようにタックルを受けた。
「生後10か月の頃には義足を使うようになりましたが、家族の接し方は他の子どもたちと何ら変わらず、兄とはよく取っ組み合いの喧嘩をしたものです」
タイロンが6歳だったある日、義足が壊れてしまったことがあった。お父さんが助け起こしてくれる、義足も直してくれる、そう思って助けを求めると、父はだめだと言う。予想もしない返事だった。その時の父の言葉が、今でも強烈にタイロンの記憶に残っている。
「お前のそばにいつまでも一緒にいられるわけじゃない。だからこそ、自分一人でも立ち上がれるようにならなきゃダメだ」
そこでタイロンは自力で立ち上がり、片足で飛び跳ねながら家まで戻り、自分で義足を直した。少し荒っぽい育て方のようにも思えるが、他の子どもたちと分け隔てなく父が接したことで、家族の絆は深まった。タイロンは自分が周りの子たちとは違うと感じることもなく、自分のことは自分でするように育てられた。彼を最初に“仲間”として受け入れてくれたのは彼自身の家族だった。
もちろん、障がいを抱えての成長は困難もあった。幼い頃には、いじめられたり、からかわれたりすることも多く、なぜ自分だけが違うのかを自問する日々もあった。自分の義足を恥ずかしいと感じていたこともタイロンは覚えている。
「いつかみんなが本当のあなたを理解してくれる日がきっと来るから」
つらい日々の中で、祖母がいつもタイロンに言い聞かせていた言葉だ。その言葉を信じていたものの、“本当の自分”を探す旅は長く、2009年頃まで続いた。その頃からタイロンは、義足は神から自分に与えられた「個性」であると捉えられるようになった。かつて「残念」だと思っていたことが、今では「ありがたい」と思えるという。自分の障がいを受け入れたことで、人生をやり直す、2度目のチャンスが与えられたとタイロンは、信じている。
「今思えば(私の障がいにより)私も家族も成長できましたし、自分が置かれた境遇によって自分が強くなれたように、家族も強くなれました」とタイロンは笑顔を見せる。
タイロンが家族について話すことで、家族、特に彼の両親が模範であり、今日の彼に影響を与えたことがはっきりと伝わってくる。
クリケットを通じて学んだ人生の教訓
幼い頃のタイロンは健常者に混じって、14年間クリケットのリーグでプレイをしていた。所属は自分の父親が監督を務めていたチーム。当時タイロンは、どの試合でも自分が常にキープレイヤーであると自信を持っていた。「結構うまかったんですよ。それで少し思い上がっていたのは確かですね」 と彼は認める。
ところがある日、自分がレギュラーから外れることを父親に告げられた。
「一番うまいプレイヤーの僕を試合に出さないってどういうこと?」と父親に怒りをぶつけると、
「チームの一員であることを学ぶまでは、絶対にプレイはさせない」との父の言葉にタイロンは驚いた。
父は宣言通り、その後の試合にタイロンを出場させなかった。最初の5試合はベンチに座り、その後の6試合は他の選手たちの給水係をさせられた。その頃になると、ようやく父が自分に何を伝えようとしているか、分かり始めた。キープレイヤーだけでなく、それぞれの選手に役割があり、どの役割も等しく必要だということ、そしてチームワークの大切さだ。この教訓に気付いた後も、父は彼をすぐにレギュラーには戻そうとしなかった。その後も10試合続けてベンチに座わる中で、タイロンは〝どんなことでも当たり前だと思わず感謝すること″、そして〝与えられた全てのチャンスにおいて全力を尽くすことの大切さ″を学んだ。
南アフリカの代表選手になることが子供の頃からの夢だったタイロンは、障がいがあるゆえにクリケットの南ア代表になることは断念したが、スポーツへの情熱が冷めることはなかった。そして、2008年に北京で開催されたパラリンピック競技大会をテレビで見ていた彼の頭に、次なる目標がひらめく。
「走ってメダルを狙うには体型が太り過ぎでしょう?だから力を使おうと。何かを投げる種目はどうかなと考えたわけです」
タイロンは、冗談交じりに砲丸投げを選んだ理由を話す。走ることも楽しそうに思えたが、筋力を操るようなパワー種目が自分には合っていると考えた。考えてみれば、幼い頃から、“世界で一番強い”と言われる人たちへの憧れは常にあった。最初にチャレンジしたのは、槍投げと円盤投げだったが、最終的に手ごたえを感じたのは砲丸投げだった。
砲丸投げをやると決めてからは、目標をロンドン2012とリオデジャネイロ2016のパラリンピック競技大会への出場と定めた。ロンドン2012大会の代表入りは叶わなかったが、2016年のリオデジャネイロ2016大会ではついにその切符を手にする。人生初のパラリンピックではあったが、自分の予想をはるかに超えるパフォーマンスで見事銅メダルを獲得。パラリンピックではまだメダルが少なかった祖国南アフリカにとって7個目のメダルという快挙となった。
YouTubeがコーチ
トレーニングには熱心に取り組むタイロンだったが、砲丸投げについて、専門のコーチから正式な指導を受けたことはなかった。身近に教われるような人がいなかったので、最初はすべて独学で、Youtubeで見つけた砲丸投げ入門者向けビデオを見ていた。その後、オンラインで出会ったデンマーク出身のコーチとメールを交わし、正式な指導を受けるようになったのはリオデジャネイロ2016大会のわずか数週間前だった。パラリンピック本番までわずか10日と迫る中、タイロンはそれまで独学で習得したやり方をすべて捨て、一からコーチの指導を受け入れた。しかし大会本番ではそれが功を奏し、銅メダル獲得となったのである。
パラリンピックを通じ、障がい者への理解を深める
タイロンにとってスポーツとは情熱以上のものだという。それは彼が日々大切にしている価値観をスポーツが教えてくれるからだ。スポーツを通じて、他人を尊重すること、自制心、チームワークやリーダーシップの大切さを学んだ。
また、パラリンピックには、彼の人生観を変えるような深い意義を見出した。
自分が世の中に受け入れられているという連帯感を感じられるようになったのだ。障がいがあることが原因で、社会の一員であると感じられないこともあった。しかしパラリンピックでは彼は“アスリート”として、他の人と全く同様の扱いを受けていることに気付いた。
「最近ではパラリンピックの認知度も上がってきました。しかしパラリンピックが市民権を獲得するためには、さらなる努力が必要だと思います。
パラスポーツの振興には、まずは障がい者について、もっとよく知ってもらうことが大切です。パラリンピックはその手段であり、競技を通じてより多くの人に理解を深めてもらえると信じています」とタイロンは語った。
彼はまた次の世代に語り継いでいくことの重要性も強調する。自分の義足を誇らしげに見せるタイロンは、東京の電車の中で会った子供たちや、通りすがりの人、初めて会う人たちにも、義足について説明するのはまったく苦にならないと言う。障がいについてもっとたくさんの人に知って欲しいからだ。このような小さな努力が世間の見方を変えると彼は信じている。
「周りの人が理解するお手伝いをすることで、誰にでも、そして“あなた自身”にもパラスポーツ振興の一端を担えるんですよ」と彼は教えてくれた。
リオデジャネイロ2016大会がタイロンのアスリート生活における重要な通過点であったことに疑いはない。南アフリカの代表選手になるという3歳の頃から抱いてきた不可能とも思えた夢。それが実現したその瞬間は彼の心に刻まれているだろう。
しかし、メダルを獲得したことがリオ大会を印象深くしているのではないとタイロンは断言する。メダルにこだわったことがないのだ。目標は今も昔も変わらない。祖国のためにベストを尽くすアスリートであり続けること。メダルやそれに付随するすべては目標に向かって日々努力する中で結果としてついてきたプレゼントみたいなものだと言う。
一点、彼が残念に思うのは父に自分の今の姿を見せてあげられなかったことだ。自分が表彰台に上がる姿を父に見せることができたならばそれ以上の親孝行はなかったはずだとタイロンは言う。スポーツだけでなく人生のコーチでもあった父はタイロンが22歳のときに他界。タイロンがパラリンピック南アフリカ代表に選ばれた日や、初めてのメダルを獲得した瞬間を父が目にすることはなかった。
障がいを持つ子供に夢を与えたい
タイロンのニックネームは、“超人ハルク”だ。アメリカンコミックのスーパーヒーローの一人であるハルクは、彼の立派な体格を表すのにぴったりの名前だ。しかし彼が“心優しい大男”として知られる理由は他にある。人とは違うという悩みを抱えて成長した彼だが、心を閉ざしたり、ネガティブになったりすることなかった。寧ろ、同じような境遇に置かれた子供たちに自分の経験を語り、夢を共にする活動をしている。
タイロンは2009年から非営利団体「ジャンピング・キッズ (Jumping Kids) 」のアンバサダーを務めている。 この団体は足を切断手術で失った南アフリカの子供たちに義肢を提供している。彼は足の不自由な子供たちへの支援活動として2013年と2014年に「ステップアップ500チャレンジ」と呼ばれる募金運動を主催した。自分自身の経験から、子供たちが日々直面する難しさをよく理解しているタイロンは、学校でも積極的に彼らの相談役となり、2011年から約200人の子供たちのサポートをしている。
トヨタの従業員アスリートとして
今年で南アフリカトヨタ (TSAM)勤続13年になるタイロンは、2005年7月からIT部門に勤務している。
「『人間性の尊重』というトヨタの理念は、全社で大切にされていることですが、それは私の信条とも共通しています。一番印象深いのは豊田章男社長にお会いできた日のこと。会社の哲学をいかに自ら体現するのか、それは私が目指すところでもあります」
タイロンはトヨタを多くの価値感が学べる、理想的な職場だと捉えている。
リオデジャネイロ2016大会に向けた準備の中でも、タイロンは毎日8時間の勤務をこなしながら、砲丸投げのトレーニングを怠ることはなかった。容易なことではなかったが、その努力の甲斐もあってか、今では東京2020大会に向けて、世界中のトヨタの社員から応援を受けている。先月、日本のトヨタ本社を訪れた際、多くの社員から受けた応援の声に感銘を受けた彼は「仲間の熱いサポートに圧倒されました」と振り返る。
自分を信じれば、夢は叶う
タイロンは、トヨタがクルマ会社からモビリティ会社に変わる、という宣言を心から喜んでいるという。モビリティ、つまり「移動の自由」という概念は、足の不自由な彼にとってつねに意識していることだからだ。
モビリティと言えば、一般的には、A地点からB地点に移動することをイメージする。しかしタイロンにとってのモビリティとは、「自由」「選択肢」「チャンス」を意味する。
「学校に通えたのも、職場に通勤できたのも、スポーツができるのも、みんなモビリティがあってこそ。“移動の自由”なしに今日の私はありません」と彼は言う。
だからこそタイロンは、「すべての人に移動の自由を」提供するというトヨタのチャレンジを全面的にサポートしている。昨年10月にトヨタが発表したグローバル企業チャレンジ「Start Your Impossible」についても、「やりたいことはその気になれば、何だってできる」というのが彼の捉え方だ。
一見不可能に思えた、南アフリカ代表になるという幼少時の夢を実現したタイロンは、銅メダルを獲得後、チャレンジをいかに克服したか自身の体験談を語り、諦めないことの重要性を人々、特に障がいを持つ子供たちに共有したいと思うようになったそうだ。障がい者がまず自分の境遇を受け入れられるよう勇気を与え、彼らも自分の不可能に挑戦するようになって欲しいというのが今のタイロンの願いだ。
インタビューを締めくくるタイロンの言葉が、我々の胸を打つ。
「不可能に挑戦するときに一番大切なのは、自分を信じるということだ。自分を信じるとき、どんな夢も叶うようになる。やってみなければ何も始まらない。その第一歩は自分を信じることから始まるのです」