会長職を離れる「ミスタープリウス」こと内山田竹志会長。豊田章男社長を支え続けた男は「嫌なことを言う人」だった!? 生放送の6つのシーンを振り返る。
「バトンタッチの土台ができた」
シーンⅤ:リモート参加した記者に「いつ退任を申し出たのか?」と聞かれて
内山田会長
私が退任を社長に相談したのは、75歳という自分の年齢が見えたときです。
今の我々のチームは非常にうまくいっていると思いますが、その状態で一年一年過ごしていって、この変革期にモビリティ・カンパニーやカーボンニュートラルの実現を本当にできるのだろうかと思いました。
75歳という物理的な年齢が見えてきたのが一つの大きなきっかけです。それから、社長と何度かこのような話を繰り返してきました。
豊田社長
(いつ決断したのか?)いつなんでしょうね…。昨年でしょうね。
内山田会長
舞台ができて、土台ができた。
豊田社長
13年ぐらいかかりましたが、バトンタッチの土台はできたと思います。
社長を始めた最初の数年は、リーマン・ショックによる赤字転落や、リコール問題、東日本大震災とかで、会社の存亡自体が大変な状態でした。
その間、損益分岐台数も非常に高く、体質を変えていかなきゃいけない。そんな日々を送っていく中で、本当に一日一日を生き抜いてきた。危機だからこそ、私が社長でいる意味があったと思います。
そういう意味では「この町いちばん」とか、「もっといいクルマづくり」、そして「自分以外の誰かのために」ということを考えられるメンバーが、非常に増えてきたと思います。
彼らから出てくる提案も、その軸がブレなくなってきている。それが、私と内山田会長が長年かけてやってきた「商品経営」と「地域を軸にした経営」だと思います。
何よりも、(我々)2人が一番貢献できたプロジェクトは「TNGA * 」と「カンパニー制」だったのではないかと思います。
*Toyota New Global Architecture。「もっといいクルマ」を実現するため、クルマを骨格から変え、基本性能と商品力を大幅に向上させるクルマづくりの構造改革。
カンパニー制ができる前までは、「グローバルマスタープラン」といって、より多く儲けられる、より多くの台数が出るプロジェクトが優先されていました。
ところが、トヨタはグローバルでフルラインナップな会社です。どんなクルマでも会社の中には、それを第一優先で考える人たちがいるという状態になったのが「カンパニー制」だったと思います。
そして、「地域制」について、私が公聴会に出席したときは、米国の情報が本社に伝わるのに3カ月ぐらいのギャップがありました。今は、より短い期間で地域の情報も入るようになってきたと思います。
「最大の理解者であり尊敬する人生の先輩」
シーンⅥ:富川キャスターから豊田社長へ、内山田会長へのメッセージを聞かれて
豊田社長
私が社長になる前、内山田さんは同じ副社長の先輩として、また、社長になってからは、技術担当副社長として、会長として、常に私をサポートいただいたと思っております。
先ほど申しましたように、やんちゃな弟を優しくサポートしてくれる兄のような存在で「もっといいクルマづくり」を一番応援してくださったのも内山田会長でした。
ミスタープリウス・内山田会長は未来への挑戦をクルマで体現した偉大なエンジニアでした。そして、私にとってはいつもニュートラルな立場でアドバイスをしてくださる最大の理解者であり、尊敬する人生の先輩でもありました。
この場をお借りして、改めて感謝申し上げたいと思います。ありがとうございました。
(内山田会長は)船乗りですから、会長を退任されて、船に乗る時間は増えるんじゃないかなと思っております。それこそお気をつけて。