今回の舞台はシンガポール。雨季も終わりに差し掛かり、まもなく熱帯の暑い夏が始まろうとしている。街の中心を流れるシンガポール川の行く先には、観光地として有名なマリーナベイサンズやマーライオンがそびえ立ち、シンガポールらしい風景が眺められる。トヨタ自動車所属の若き水泳選手 川本 武史(24歳、e-TOYOTA部)は、日本からこの街に武者修行に来ていた。
※本記事は、トヨタグローバルニュースルームに2019年7月26日に掲載されたものです
今回の舞台はシンガポール。雨季も終わりに差し掛かり、まもなく熱帯の暑い夏が始まろうとしている。街の中心を流れるシンガポール川の行く先には、観光地として有名なマリーナベイサンズやマーライオンがそびえ立ち、シンガポールらしい風景が眺められる。トヨタ自動車所属の若き水泳選手 川本武史(24歳、e-TOYOTA部)は、日本からこの街に武者修行に来ていた。
「勝ち」にこだわるサムライ
川本はバタフライを専門種目とする競泳選手だ。昨年10月の短水路世界選手権代表選考会(※1)では、50mバタフライにて日本記録タイの22.49秒、100mバタフライでは49.60秒の日本新記録を叩き出し、優勝した。11月の国際水連世界選手権では100mバタフライ決勝を制し、初めて世界大会での優勝を経験した。
川本の武器は、ドルフィンキック。体幹を使ってイルカのように身体をしならせながら足先まで力を伝え、揃えた両足で水を上下に蹴り出すことで前進する。元トヨタ水泳部で、日常的に川本と接している岸田(スポーツ強化・地域貢献室)によると、川本のドルフィンキックは国内でも1、2を争うレベルではないかと言う。
その川本自身がドルフィンキックでもライバルと強く意識するのがシンガポール代表の競泳選手 ジョセフ・スクーリングだ。
スクーリングは川本と同じ1995年生まれ、同じく短距離のバタフライを競技種目とし、リオデジャネイロ2016オリンピック競技大会では100mバタフライで金メダルを獲得している。学生の頃よりスクーリングの活躍は川本も知るところで、同世代の中でも頭一つ抜きん出た選手としてスクーリングは常に気になる存在だった。
そして川本は幸運にも、スクーリングと同じ短距離選手(スプリンター)の強化トレーニングに参加するチャンスを得る。英語はあまり得意ではないが、海外でのレベルの高いトレーニング環境のもとで、ライバルに腕試しする好機と意気込み、川本は単身でシンガポールでの修行の門を叩いたのだった。
*※1 競泳のプールは、長水路(50m)と短水路(25m)の2種類がある。ターンの回数の違いにより、公式記録は別々に扱われている
ライバルがつくる負けず嫌いの自分
川本は5歳年の離れた兄の影響で、3歳から地元である豊田市のスイミングスクールに通い始めた。通い始めた頃は、「泣きわめいたり、スクールの先生に抱っこしてもらうほど、水が嫌い」な子どもだった。しかし物ごころ付くようになると、同学年で体つきも似ている周りのスクール生と「泳ぎで競い合うことが、楽しさに変わっていった」。
練習中であっても隣のレーンで泳ぐ選手は、常に競争相手だった。その負けず嫌いの性格が奏功し、川本は小学生から全国大会の常連に。高校、大学はいずれも水泳の強豪校へ進学。大学では水泳部の副キャプテンを務めながら、チームメイトとテクニックやタイムを競い合い切磋琢磨していった。
川本がそもそも水泳を始めるきっかけとなった兄自身はアスリートとして水泳は離れたものの、今は理学療法士として、定期的に川本のコンディションを診ながら水泳一筋の川本の競技生活を支えている。そして両親は国内で開かれるすべての試合に足を運ぶという。両親に一番感謝していることは、「試合のタイムが悪くても何も言わないこと。それがここまで来られた理由のひとつではないか」と話す。
自分の性格について「内弁慶のようなタイプ。内に秘める情熱や想いは強いが、外ではあまり口にしない」と言う。負けん気の強さから、例え家族であっても他人から『負け』に触れられるのは好きではないのかもしれないと感じた。
そして身体のコンディショニングや心のケアはトレーナーにすべて任せるのではなく、自分自身で調整するセルフケアにこだわっている。悔しさや辛さの残る試合というのは、戦った本人が一番よく分っているという思いもあるのだろう。
社会人アスリートとして
トヨタ自動車に入社後の川本の競技人生は、決して順調ではなかった。2017年4月入社後まもなくして不注意により右ひじに怪我を負い、完治までの2か月は入水練習ができなかった。川本は治療に専念する中で、企業に所属しながらスポーツを続ける社会人アスリートとしての立場を再認識し、自身に寄せられていた周囲の期待の大きさに気付いた。
その反動で、結果を残さなければいけないという強いプレッシャーに襲われた。試合に出場すると戦績を伴う。なかなか実力の発揮できない川本に、岸田含む周囲のサポーターはPDCA(※2)を回しながら、今後の活動について川本と徹底的に話し合った。
周囲の親身なサポートに川本は、「自分のためだけではなく、応援してくれる人達にも喜んでもらえるパフォーマンスをしよう」と気持ちをリセットする。入社してから伸び悩む日々が続いたが、自分と向き合う時間を持てた。アスリートとしての方向性を新たに見出した川本の調子も徐々に上がっていった。
*※2 Plan(計画)、Do(実行)、Check(評価)、Act(改善)のサイクルを回すこと。トヨタの職場では業務の改善の手法として常に用いられる
ライバルは隣のレーンに
シンガポール屈指の大型トレーニング施設内のプールが今回の川本の修行の場だ。シンガポール水泳連盟の本拠地として、アジアの強豪選手がこの国際大会規格のプールでトレーニングをしている。
午後、川本とスクーリングの所属するスプリンタークラスの水中トレーニングが始まった。この日は早朝より水中トレーニング、午前中に陸上トレーニングがあった。ストレッチを十分に行った後、入水してのウォーミングアップが始まる。ビート板を使用したキック、スローペースでクロールなどを泳ぎ、体を動かしていく。50mプールの往復が何回か行われた後、選手達はプールサイドに上がった。
コーチが選手たちに次のメニューの指示をすると緊張感のある空気が流れ始めた。コーチはストップウォッチを握り、川本とスクーリングをペアにさせる。そしてコーチの合図とともに、両選手が飛び込み台から綺麗な弧を描いて水を切るように入水した。
力強いドルフィンキックと深いストロークでスピードに乗ってバタフライを泳いでいく。手前で泳ぐ川本と奥のスクーリングがワンストロークする度に、大きな波のうねりと水しぶきが上がる。その姿は、練習とは思えないほどの迫力だ。
川本はリオ2016の100mバタフライ決勝で見せたスクーリングのパフォーマンスに触発されていた。川本が着目したのは体格の差を感じさせないスクーリングの泳ぎだ。競泳では短距離種目ほど、選手の身体の骨格差が結果に顕著に出ると言われている。
「スクーリング選手が、体の大きい欧米選手を抑え、オリンピックで金メダルを獲得したことは驚いた」と、同時にスクーリングと似た体つきの「自分も勝てる!と自信が湧いた」と川本は話していた。当時のスクーリングの泳ぎは、東京2020オリンピック競技大会の出場を目指す川本の闘争心に火をつけた。
トレーニング中は、スクーリングの隣のレーンで泳ぐ川本。「彼には絶対勝ちたい」と、わずかな差を詰めようと隣を追うが、泳ぎ終えた後には「勝てない」と悔しさを滲ませた。しかしそれが今の川本の原動力となっているようだ。
冷静にパフォーマンスと向き合う
「集中すると周りは見えなくなる」という川本は、試合中は他選手のことは気にならないようだ。試合本番ではパフォーマンスに集中することはもちろん、試合中にクリアしたい課題を2、3個持ってレースに挑んでいる。レース中は、「何ストローク目をミスした、この部分をミスしたなど、冷静に自身のパフォーマンスを分析している」のだ。
川本は「究極の泳ぎ方」を目指している。ハンマー投げの様に一瞬で力を発揮させるスポーツに対して、川本の競技時間は「51秒もある」と表現し、「この(51秒の)中でいくつかミスがあるので、完璧に泳ぎ切ったときのタイムを見たい」と言葉を続ける。
昨年の短水路世界選手権で日本タイ記録を出した時の泳ぎについても、川本は「満足していない。途中でミスがあった」と不満げなのはこのためだ。
競泳という競技について、「100分の1秒まで、結果の決まらない世界」と川本は話す。「スタートの強い選手もいれば、後半に追い上げる選手もいる。戦略も色々ある。最後にバテてしまう選手もいるので、競泳は最後の最後まで勝負が分からない」。
座右の銘は『人事を尽くして天命を待つ』。「やるべきことをやって、あとは運を待つ」と目の前の課題に愚直に取り組んでいくという川本の意気込みが感じられる。その努力の先には、勝負ごとには運もあると言われるように、『運』をも味方につけたいという川本の想いが強く印象に残った。
「上しか見ていない」という川本は、ライバルに勝つことにこだわることでモチベーションを高め、着実に強くなってきた選手だ。次は東京2020でメダルを獲得するという大きな目標に向かって突き進んでいる。川本にとってこれは世界中のライバルに勝つことはもちろん、自分自身にも勝つという大きな挑戦(Start Your Impossible)となるだろう。
日本でも競泳は人気の高い観戦競技だ。東京2020の競泳プール会場も世界のトップスイマー達を応援する観客で一杯になるだろう。その大舞台で持てる全てのパワー、テクニックを発揮し、運までも味方にする川本武史の泳ぎを精一杯応援したい。
編集後記
川本選手のインタビューを通じて強く印象に残った言葉は「勝つ」。取材で訪れたトレーニング後も川本選手は「絶対負けたくない」とスクーリング選手に対して闘志をメラメラと燃やしていました。川本選手にとってライバルは常に自身を奮い立たせる存在。トレーニングとは言え、念願のライバルとの対決を川本選手は全力で楽しんでいるように感じました。