自動車業界を匠の技で支える「職人」特集。第23回は金属から樹脂まであらゆる材料の断面組織を読み解き、「もっといいクルマづくり」に寄与する「材料調査の匠」に話を聞く
3DプリンターやAIをはじめとするテクノロジーの進化に注目が集まる現代。だが、クルマづくりの現場では今もなお多数の「手仕事」が生かされている。
トヨタイムズでは、自動車業界を匠の技能で支える「職人」にスポットライトを当て、日本の「モノづくり」の真髄に迫る「日本のクルマづくりを支える職人たち」を特集する。
今回は、金属から樹脂、セラミックスまであらゆる材料の断面組織を読み解き、壊れた部品の真実を明らかにする「材料調査の匠」高野光雄の後編をお届けする。
第23回 あらゆる素材に対応する「材料調査の匠」高野光雄
トヨタ自動車 先進技術開発カンパニー モビリティ材料技術部 部付 GX(グランドエキスパート)匠
現地現物の教え
1991年から94年にかけて、高野は人材開発部に在籍した。トヨタ工業学園の生徒や、社外の協力メーカーに対して、機械材料の講義を行う仕事だった。
その間、高野に一つの転機が訪れた。トヨタ工業学園の生徒を連れて、鍛造部に実習に行ったときのこと。当時は鍛造部の工長だった河合おやじが、高野に問いかけた一言がきっかけだった。
河合おやじ
君は、自分で鍛造を経験したこともないのに人に教えられるのか?
高野
学園生に教えるくらいのことなら、自分にもできます。
河合おやじ
君は、だからダメなんだ。経験もない者が講師になってどうする。鍛造をやっていきなさい。
河合おやじの言葉を受け、高野は学園生とともに鍛造作業をやることになるのだが、その経験が、高野の心の中に深く刻まれたという。
高野
あの時初めて、モノづくりには現地現物が大事なんだ、と身にしみました。
現地現物。トヨタの重要な価値観の一つである。現場に行き、実物を見て、自分で触れて、初めて本当のことが分かる。それを河合おやじは、まだ若い高野に知ってほしかったのだ。
13人しか存在しない称号
その後、高野は現地現物を実践しながら研鑽を重ね、2012年、工長に昇格した。さらに2019年には「匠」の称号を授けられた。トヨタに技能系の社員は約4万人いる。その中で匠と呼ばれるのは、わずか13人である。
匠の称号は、当時副社長だった河合おやじが認めた者だけに与えられる。13人のうち10人は、凄腕技能養成部の評価ドライバーたちだ。技術開発部門で匠と呼ばれるのは、高野を含めて3人しかいない。
高野の正式な役職は、モビリティ材料技術開発部 部付 GXである。通常、技能員は課に所属し、課長の指示で動く。しかし部付は、部長直属だ。金属材料に限らず、あらゆる材料についての依頼が直接、高野のもとに来る。新材料の評価も、市場不具合の故障解析も、高野は対応する。
「解析屋」として設計を支える
匠として最も重要な仕事の一つが、故障解析である。
豊田章男会長は「モータースポーツを起点としたもっといいクルマづくり」という方針を掲げている。レースの現場で、部品を限界まで追い込み、壊す。そこから学び、次はもっと良いものをつくる。
高野は、S耐(スーパー耐久シリーズ)の現場に同行した時期がある。サスペンションのアームが曲がった、コンロッドが破損した──そのような事態が発生したときは部品を持ち帰り、材料調査を行う。
ある時、水素エンジンカローラの開発を担当する伊東直昭主査が、サーキットで高野の姿を見て言った。
「解析のプロが来てくれましたね!」
高野は、この瞬間が忘れられないという。
高野
入社して最も嬉しかったですね。それまでは「材料屋さん」と言われることが一般的でした。もちろん私たちは材料屋であり、直接設計に携わることはないのですが、伊東主査は私について問題を解決する専門家の一人として認識してくれました。それが嬉しかったんです。
故障解析では、協力会社の現場に赴くこともある。例えば、燃料タンクに不具合が生じれば、その原因を究明しなければならない。
そのような場合、一般的には「監査に行く」と言う。しかし高野たちは、共に材料技術開発を担う立場として、一緒に原因を探す姿勢で臨む。
高野
監査に行くという姿勢では、本当のことは見えません。「現場を勉強させてください」という姿勢で臨めば、協力会社様とも信頼関係が築くことができ、問題解決もスムーズになります。
こうして、材料調査の結果は設計部署へフィードバックされ、もっといいクルマづくりに生かされる。
高野
設計部署へは、例えば「この素材では耐久性が不足しているから、違う材料にしましょう」「この辺に異常な力が加わっていそうだから、この力を緩和させましょう」といった具合に提案します。
設計を変える。材料を変える。製造方法を変える。そうした改善提案ができるのが、材料調査技能の真価である。
高野の技能は、競合他社製品の分析にも使われる。ベンチマーキング・コンストラクション(BMC)と呼ばれる手法だ。
例えばアルミ合金の部品。断面を切って、組織を見る。析出物の模様から、鋳造品か鍛造品かを判定できる。熱処理の履歴も読み取れる。こうして得られた知見が、次の開発に生かされるのだ。
原理原則を貫く
前述の通り、材料技術部が扱う材料は、多岐にわたる。金属材料、高分子材料、触媒材料、バッテリー材料、トライボロジー材料、塗装・防錆材料。クルマに使われるあらゆる材料が、この部署のテリトリーだ。
高野が入社当時から言われてきた教えがある。「材料技術では原理原則が大切だ。物の原理原則が分かれば、材料開発は何でもできる」。
原理原則とは何か。金属であれば、熱を加えると組織が変わる。冷やし方によって硬さが変わる。力を加えると変形する。こうした材料の基本的な性質や法則を理解することだ。その原理原則が分かれば、金属だけでなく、樹脂も、セラミックスも、触媒も、同じ考え方で対応できる。
高野の弟子である藪谷剛史SX(シニアエキスパート)は、高野から学んでいる原理原則の深さに驚いているという。
藪谷
高野さんの下に来て、自分が考えていた原理原則は、本当に浅いものだと気づきました。高野さんは、目の前の原理原則だけでなく、その先のさらに先まで把握しながら仕事を進めている。近くで見て、そう実感しました。
100年に一度の大変革期と言われる今、自動車産業は大きく変わろうとしている。パワートレーンの電動化が進み、水素エンジンや燃料電池も登場している。それに伴い、全固体電池、モーター用の硬磁性材料、CFRP(炭素繊維強化プラスチック)製の水素タンクなど、新しい材料への対応が求められている。
新しい材料が次々と登場するが、基本となる技能は変わらない。切断、研削、琢磨、エッチング、組織判定。この5つの工程は、基本的にどんな材料にも共通している。この点においても、材料調査では原理原則が重要なのだ。
弟子 藪谷への期待
「『愚直に地道に』がモットー」だという藪谷は、地元である静岡県の商業高校情報処理科を卒業し、1991年にトヨタに入社。それ以来、東富士研究所に勤務し、機能性材料の開発を中心に経験を積んできた。
機能性材料とは、電池や磁石など、特定の機能を持つ材料のことだ。藪谷は全固体電池開発の立ち上げや、モーター用の磁石材料の評価などに携わってきた。
2022年、藪谷は磁石材料に関して社内専門技能習得制度のM級を取得した。M級は熟練技能者の証である。この時、高野は専門技能委員として藪谷を推薦した。
高野
M級は誰でも取れるものではありません。機能のスペシャリストです。その時、私はたまたま専門技能委員をやっていて、M級取得者を推薦する立場でした。だから、藪谷さんを本気で推薦しました。
なぜ藪谷だったのか?
高野
本心で話せる人だと思ったからです。技能者認定の基準は決して技能だけではありません。トヨタの社則に『素直・正直』という言葉がありましたが、それが私たちの中には今も存在しているんです。
2025年1月、藪谷は本社のモビリティ材料技術部に異動した。
藪谷
東富士研究所に長く勤務していたため、上司から「外に出て経験の幅を広げなさい」と言われました。
異動した第一の目的は、高野の仕事を近くで見て学ぶことだった。人事的にも、高野の後継者に、と考えられていたのだ。
藪谷
技能においても知見においても、高野さんは材料技術部で唯一無二の存在です。とはいえ、高野さんも人間です。高野さんが人間としてできているのだから、自分はそのレベルには及ばないにしても、何かできるのではないか──そんな思いで日々取り組んでいます。少々楽観的かもしれませんが……(笑)。
一方、高野が藪谷に望むことは、技能習得だけではない。
高野
材料技術部の中には、塗装設計と触媒設計という設計室としての役割もありますが、私たちの役割は、設計陣への支援業務や市場品質の確保がメインです。「支援」という言葉を使うと、モチベーションが下がるからやめましょう、という話もあります。でも、もっといいクルマづくりには、支援の力が不可欠です。そこに誇りを持ってもらえる人に、仕事を託したい。
次世代へ託す
高野は定年まで、あと2年ほどだ。今、残された時間を意識している。その間に、何を成し遂げるか。藪谷も、高野から学べる時間は、決して長くない。しかし高野は、藪谷の実力を信じている。
高野
私は『そのままお渡しします。あとはやってください。君には実力があります』という思いしかありません。
高野が藪谷に託そうとしているのは、技能だけではない。人脈もまた、大切な財産だ。設計部署、品質保証部、サプライヤー、グループ会社。困難なときに頼れる人たちが、たくさんいる。
高野
困ったなと思ったら、声をかけてくれるエンジニアもいます。そういう人脈も、譲っていけたらと思っています。
金属の結晶構造、めっきの層、合金の析出物──それらはすべて、材料が語る言葉であり、高野は44年間、その言葉を聞き取り続けてきた。
自動車業界が100年に一度の大変革期を迎えた今、材料技術の重要性は増している。そんな中、高野が44年間かけて積み上げてきた技能と人脈と信頼は、次世代へと受け継がれていく。原理原則を貫き、あらゆる材料に対応する。材料調査の匠の仕事は、これからも「もっといいクルマづくり」を支え続けることだろう。