トヨタ工業学園卒業式。代表挨拶を読み上げた卒業生に豊田は言葉を掛けた。2人だけの会話で何を語りかけたのか。
まだ冷たい冬の寒さが残る2月19日、トヨタでは世間の卒業シーズンよりも一足先に、企業内訓練校「トヨタ工業学園(以下、学園)」の卒業式が行われた。
創業者の豊田 喜一郎は、「日本人の頭と腕で国産車をつくるためには、まずクルマをつくる人を育てなければならない」との思いで、1937年のトヨタ自動車工業(現トヨタ)設立の翌年に技能者を養成するための「豊田工科青年学校」をつくった。それが現在の学園(愛知県豊田市)である。
豊田から掛けられた言葉
式典の終盤、卒業生代表あいさつの時のこと。社長の豊田は、涙ぐみながらあいさつの言葉を読み上げた生徒と握手を交わし、最後に言葉を掛けた。マイクが生徒のほうを向いていたため、会場にその声は流れず、2人以外には何を話したのか分からなかった。式典終了後、取材に来ていた記者が豊田に「なんと声を掛けたのか?」と質問をすると、彼にはこう伝えたという。
「理央くん、山口のお父さんとお母さんに自信を持ってありがとうと伝えなさい。」
なぜこの言葉を選んだのだろうか。
父との約束
卒業生代表あいさつを任されたのは、水月 理央(みずつき りお/18歳)。遠く山口県から学園へ入学した。
「中学3年生で進路を決める時に、最初は地元の工業高校へ行こうと思っていました。ただ、よく考えるとそこでは勉強する内容が違うだけで、周りの環境とか、ある程度は変わると思うけど、知っている仲間がいる状態なのも面白くないなって。高校進学という節目で、何も知らない環境に自分を置いてみたいっていうことから、学園を選びました。小さいころから、クルマが好きだってこともあったので。(好きなクルマは2代目スープラ)」
15歳で家を出て、誰一人知らない世界へ飛び込む。そこには、自分の力を試し、成長したいという純粋な思いがあった。水月が両親から常々言われてきたのが、「自分のことは自分でやる」。その教えが自立心を育てたのかもしれない。
だが、両親には賛同してもらえず、猛反対を受けた。
「実際に行くって決めて、両親に伝えたのが中学3年生の9月か、10月くらいだったと思います。それから父との攻防は長かったです。反対されることが分かったので、また言うのかぁ・・・っていう風になって、中々言い出せなくて。でも承諾をもらえないと行けないので。」
年齢や距離を考えれば、当然の反応かもしれない。加えて、水月は兼業農家の長男であり、家に残ってほしいという父 和則の思いもあった。母の美和子に話を聞くと、小さいころから手がかからない良い子で、学園への進学も反対すればすぐに諦めると思っていたそうだ。しかし、水月は頑として意志を曲げなかった。
「これまであまり両親に反発をしたことがなくて、反抗期もなかったんです。少し厳しくて、反抗しても敵わないなっていうのがあったので(笑)。この時諦めなかったのは、自分の将来を考えて学園に行くと決めたので、考えを変えると後悔しそうだなっていうのと、自分で決めたからにはどんなことでもやるって、そういう気持ちが出てくるんじゃないかと思ったからです。」
その熱意に負け、母は息子の決意を応援しようと決めた。だが、受験後もまだ父は許してくれなかった。
「学校の先生から合格通知を受け取って、その時はすごく嬉しかったんですけど、父親に言わないといけないというのがあったので、『あ・・・』って思いながら。」
母から背中を押され、父に自ら合格通知を手渡した水月は、父からの「本当にやれるのか?」という問いに、「何がなんでも絶対がんばる」と答えた。その約束を胸に、学園生活が始まった。
「同級生」という存在
学園では、豊田綱領、創業の精神、トヨタで働く上での心構えなど、まずは会社にとって不変の価値観を教わる。その上で、ものづくりの技能を徹底的に教え、製造・開発現場での即戦力、そして将来、現場のリーダーとなれる人材を育成している。授業の他に、一般的な高校と同じように行われている部活動も、もちろんその一環だ。
3年生のある時、水月の所属するサッカー部で「サッカーボール事件」が起きた(彼らの中でそう呼んでいるらしい)。事の発端は、3年生が工場実習に出ていて不在の間に、2年生の部員が片づけを怠り、サッカーボールを1つ紛失したことだった。
コーチから「道具を大事にできないやつは、ボールを蹴る資格はない」と言われ、この日の練習はきつい走り込みのみ。工場実習から戻ってきた3年生も連帯責任を負わされたことになる。
キャプテンを務めていた水月は、同級生に対し「嫌なのは分かるけど、今はついてきてほしい」と声を掛け、走り込みに取り組んだ。その日は何事もなく終了したが、次の日も通常の練習に戻ることはなく走り込みが続くと、同級生の何人かは不満をあらわにした。
「自分はキャプテンの立場として、皆に練習に前向きに取り組んでほしいんですけど、この時、何人かは自分が声を掛けても、そういう気持ちになってもらえませんでした。」
自分ではどうにもならないと思いコーチに相談すると、コーチは何人かの3年生に対し「やる気がないなら帰れ」と叱責。すると、注意されたメンバーたちは、引き止める水月を振り切ってグラウンドを出て行ってしまった。
しかし、その後しばらくすると、監督に連れられ泣きながら戻ってくるメンバーたちの姿が。一体何があったのか。この時、出て行ったメンバーの一人、小島 広夢(こじま ひろむ)に話を聞いた。
「コーチに帰れと言われて感情的になってしまったんですけど、学園の校舎の方に歩いていく途中で、『また理央に迷惑をかけちゃった』って後悔して・・・監督に相談に行きました。この時も、いつもそうなんですけど、チームで何かあるといつも理央が怒られて、理央もキャプテンとしてまとめられない自分が悪いって、皆をかばうんです。」
学園生活の中で1番長く時間を共にしてきた部活動の同級生たちは、水月に対して皆共通した想いがあるという。
「理央はサッカー部のキャプテン以外に、クラスの副リーダーや副寮長とか色んな役をやっていて、その上、技能五輪の選手。すごく忙しいのに周りのことを1番に考えて、誰よりも早く動くやつなんです。だから、監督やコーチに言われて納得できないことも、『理央が言うなら』って、皆そう思っていました。」
皆が嫌がる部活の準備や片づけを率先してやる姿。寮の部屋で技能五輪の練習ノートを開いたまま、机で寝てしまっている姿。時には、怒られるのを覚悟で、思いっきりいたずらをする姿も。常にどんなことでも全力で取り組む水月の姿を、一番近くで見続けてきた仲間だからこその想いだろう。
グラウンドへ戻ってきた仲間の謝罪を受け入れた水月も、「一緒に過ごした時間があるからこそ想いが伝わった。仲間の良さを感じた」と、学園生活の中で築いてきた仲間との絆をとても大事そうに語ってくれた。
そして、小島はこう話を続けた。
「今、現場に配属されて大変なことも、辛いこともあるけど、理央だったらもっと頑張っているだろうなって、自分も負けないように頑張ろうと思います。」
「何がなんでも絶対がんばる」という父との約束。小島の言葉は、水月がその約束に恥じない3年間を送ってきた何よりの証拠だと思う。
卒業式の後、母には直接感謝の想いを伝えたが、仕事で来られなかった父とはまだ話せていないという。
「社長に言ってもらったように、次に実家に帰った時に『ありがとう』と伝えたいと思っています。」
そう話す水月の表情は、とても晴れやかな笑顔だった。