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衣浦工場を歩く~豊田章男の見た景色

2019.11.06

「以前とはまるで別の工場だ」。8月末、衣浦工場を訪れた豊田が語った。同工場では新たな挑戦が始まっていた。

10月9日、トヨタ自動車は社長の豊田章男ら経営幹部と労働組合が秋の労使協議会を開き、その様子をトヨタイムズでも紹介(INSIDE TOYOTA #36)したが、今回は少しスポットを当てる場所を変えてみたい。

今年の春の交渉(春闘)では年間の賞与は夏分の回答のみという異例の事態となった。交渉の中で、「今回ほど距離感を感じたことはない」と語った豊田。秋の交渉の前に、「今のトヨタで何が起こっているのか。その真実を自分の肌で感じ取りたい」との思いで、海外出張の予定をキャンセル。スケジュールを大幅に変更して、職場を回り、現場の声に耳を傾けた。秋の交渉の回答にあたり、豊田はこのときに訪れた2つの職場でのやり取りに触れている。

「一石三鳥」のアポなし訪問

「以前とはまるで別の工場だ――」。8月末、愛知県碧南市にある衣浦きぬうら工場を訪れた豊田が語った。2年半ぶりの訪問。聞けば、春の交渉で「異例の回答」が出されたころ、同工場では、新たな挑戦が始まっていたという。豊田は一体、何を見て、何を感じたのか。本心を探ろうと、トヨタイムズ編集部は現場に向かった。

衣浦工場は本社(愛知県豊田市)から南に位置し、変速機などの駆動部品を生産している。41年前の1978年に稼働を開始し、敷地面積は約84万平方メートルを有する。訪問日は違うが、豊田が実際に訪れた時間にあわせて、同じルートを同じ時間に歩いてみた。

825分頃に工場に着くと、2人の「おやじ」が迎えてくれた。鋳鍛造部・次長の文堂弘己と第2トランスミッション製造部・次長の堀合広光だ。豊田が訪れたときに現場を案内したのもこの2人だった。

豊田の現場訪問には、副社長の河合満が同行することが多い。河合はトヨタの現場を知り尽くした「おやじ」の中の「おやじ」だ。そして、必ず「アポなし」だ。豊田はその理由をこう話す。

豊田:
「『トップ視察』となると、そのために多くの人が準備に時間をとられる。だから、トップが帰った後は、『やれやれ、ようやく帰ってくれた』とホッとした顔になる。でも、突然行くと、事前に準備をしていないから、とまどいはあるが、帰るときには皆、笑顔になる。それと、現場を一番知っている人が案内してくれるし、現場にも負担をかけない。一石二鳥にも三鳥にもなる。」

豊田と現場に行くときは、直前になって、河合は現場の「おやじ」仲間に電話を入れる。「今から社長と行くからな」。伝えるのはそのひと言だけだ。今回電話を受けたのが、文堂と堀合だった。

2人に案内されて、入口から事務館を通って第2工場の中に入る。「こんにちは!」。誰かとすれ違う度に必ず声をかけられる。こちらも声を返す。「こんにちは!」。衣浦工場の人たちの明るさに少し驚いた。このことを衣浦工場長の新美俊生に話すと、こんな答えが返ってきた。「皆には『挨拶をしっかりやろう。それが全てのコミュニケーションと明るい風土づくりの源になる』といつも話しているんです。それを皆が理解し、実践してくれていると思うと本当に感謝しかありません」。豊田も同じことを感じたのかもしれない。

「当たり前」を徹底した朝会

まず、朝のミーティング現場に案内された。Direct Shift-CVT(世界で初めて発進用のギヤを採用した乗用車用CVT)の生産準備のため、生産技術や製造の各担当者に加え、仕入先の担当者も一体になって「朝会」を開いていた。この日は約20社の仕入先のリーダーが参加。前日の不具合や当日の作業内容、安全と健康状態の確認などをルーティーンで実施しているという。多い時には4050社が顔をそろえるが、これには理由がある。衣浦工場では5年前に取引先の重大災害が発生している。「当時のことを決して忘れてはならない。職場の安全に社内も社外も関係ない」という思いから、「全員参加」で確認するやり方に変更していた。

豊田が口癖のように繰り返す仕事の優先順位がある。それは「①安全、②品質、③量、④コスト」だ。これまでのトヨタでは、「量」(販売台数など)を増やしたり、「コスト」を削減した人は「ほめられる」傾向があった。これに対して、「安全」「品質」は実現して「当たり前」。「ほめられる」ことは少ないかもしれないが、普段から徹底していないと決して実現することはできない難しい領域だと言える。

災害について豊田は、「災害でつらい思いをされた方の本当のお気持ちまでは理解することはできないかもしれない。でも、つらい災害があったという事実をずっと忘れずにいることは自分にもできることだと思う」とたびたび口にしている。過去の災害を忘れることなく、「安全はすべてに優先される」という原則を実践している現場の姿は、豊田の目に頼もしく映ったのではないだろうか。

休憩所と柿の種

休憩所で工場メンバーと談笑する豊田

次に案内されたのがCVT(無段変速機)の量産ラインだ。朝会が始まる前の休憩所に通された。前回、豊田が衣浦を訪れたのは2017年3月。その時の衣浦は連続3交替という非常に忙しく、大変な状況にあり、疲弊する現場をねぎらうために訪問したのだった。その時もここに立ち寄ったという。

休憩所には、豊田と河合を迎えた時と同じように、「柿の種」まで準備されていた。「俺、昨日、買ってきたんですよ。この柿ピー、わさび味」。「社長にも柿ピーを食べてもらった。碧南のバローで買ってきたんだ。バロー知らんの?」。初めて来たことを忘れるぐらい、皆が口々にいろんなことを話してくれる。笑い声が絶えない中、豊田が来たときの様子を聞いた。

部屋に入ってきたときの第一声は「誰だかわかる?」。「え、社長じゃないですか」と驚きながら答えたのが若手メンバーの福井琴絵だ。福井は2年前の訪問のことを知らない。社長と話したときの感想を聞いてみた。「メガネをしてなかったので、最初は誰だかわからなかったんです。ひょっとして社長? 本当にここに来てくれたの。そんな感じでした」。戸惑う福井に対して、豊田は笑いながらこう返したという。「(社長って)わかるんだ。ああ、よかった。安心したぁ」。

夏季休暇の直後で、職場のメンバーが帰省して買ってきた土産がたくさん置かれているのを見た豊田が「どうして、ここはこんなに食べ物があるの?」と聞く。こんな調子で、何気ない会話が進む。地元のスーパーで買ってきた「柿ピー」を食べながら、皆が思い思いに話をしたという。「現場はこういうところがあたたかくて、いいなぁ」と豊田がもらした。現場には肩書きを感じさせない空気がある。豊田はこの空気が好きだという。休憩所で皆と話をしていて、河合の言葉を思い出した。

河合:
「クルマづくりの現場はチームでやらないと仕事が回らない。誰ひとり欠けてもクルマはできない。自分が休んだら、他の人に迷惑をかける。だから、皆、大雨が降ろうが、大雪が降ろうが、何があっても会社に行こうとするんだ。これが現場のチームワークだよ。」

皆がクルマづくりの一員。社長の豊田を前にしても、それは変わらないのかもしれない。豊田の大きな笑い声が聞こえてきそうな気がした。

最後に福井が教えてくれた。「社長が帰るときに握手してもらいました。すごく気さくな人でした」。そこに仲間からツッコミが入る。「その手、洗わなかった?」。どっと笑い声が起こった。サプライズでやってきた豊田。帰った後には、確かに皆の笑顔があった。

職場に入って「できなくなること」

朝会が始まる。班長の神崎裕也と一緒に、あわてて皆の後を追いかけた。豊田が秋の交渉でも紹介した企業内訓練校「トヨタ工業学園」を今春に卒業したばかりの若者、水野蘭丸が待っていてくれた。我々が来るということで、豊田が訪れた時と同じように、改善事例を報告してくれたのだ。この朝会では、毎回1人が改善事例を発表している。秋の労使協議会の記事でも触れたが、水野が担当した工程には、大小2種類のサイズの部品箱があり、部品を使った後の空箱はその重さを利用してレールの上を滑らせて返却していた。しかし、小さな箱が2本のレールの間に引っかかることがあり、その処置を行う際に頭をぶつける危険性があったため、レールの数を増やして小さな箱もスムーズに移動できるようにした。話を聞いた豊田が「少し意地悪な質問」と表現した、「レールの数を増やすとコストが増えるから良くないでしょ」という問いに、水野は「安全第一。コストよりも安全を優先すべきだと考えます」と答えている。豊田はここで思わず「君はすごいな!」と声をかけ、何よりも思ったことを素直に話してくれたことを喜んでいる。

豊田の「意地悪質問」に答える水野

水野にそのときの気持ちを聞いてみた。彼は、トヨタ工業学園などで学んだことをそのまま語ったのだが、「自信になりました。社長に言われて、これまで学んできたことが正しかったんだと思えて、嬉しかったです」と振り返った。もし、自分が水野の立場だとしたら、同じように答えられただろうか。社長にコストのことを指摘されれば、最初に「申し訳ありません」という言葉が出たかもしれない。豊田は「トヨタには職場に入るとできなくなることがある」と言う。水野のように思ったことを素直に話すこと。それもできなくなることの一つかもしれない。実は水野が豊田に会うのはこれが初めてではない。学園の卒業式のあと、彼はモリゾウスタンプを押してもらっていた。豊田と水野はスタンプのことについても話をしたという。豊田にしてみれば、自分がスタンプを押した学園の卒業生が、素直さを失わずに現場で頑張っている姿が嬉しかったのではないだろうか。

衣浦の挑戦

朝会で困りごとをつぶしこむメンバー

その後、第4工場に徒歩で移動した。ここでは、衣浦工場が手掛けたことのないハイブリッド車(HV)用トランスアクスルの生産という新たな挑戦が始まっていた。最初に訪れたのは、生産準備中の大容量HV用トランスアクスルの現場だった。シエナやハイランダーなど排気量2.5リットルクラスのクルマに搭載するという。そこではモーターの生産準備を行うラインのメンバーが「不具合ボード」と呼ばれるホワイトボードの前に集まって、朝会を行っていた。ボードには前日までに発生した不具合や困りごとが書かれ、1つずつ確認を進めては、参加者全員で知恵を出し合って、解決策を話し合う。対応が済んだものについては、その場で消し込んでいく。

次に足を運んだのは、今年立ち上がったばかりの中容量HV用トランスアクスルを生産するラインだった。HV用トランスアクスル内に配置するモーターの生産は特に難しく、衣浦には経験者がいない未知の仕事だった。工場内の各部署から加工担当や組み付け担当などが集結し、悪戦苦闘しながら何とか新ラインの立ち上げにこぎつけた。しかし、立ち上がり後も、初めて手がける部品のため、不具合が多く、苦労の連続だった。5月の連休までの約2カ月間、モーター生産の経験豊富な本社工場から応援を出してもらい、可動率を当初の50%未満から95%まで高めることができた。今回の件で本社工場の担当者とも関係が深まり、今でも電話やメールなどで、やり取りが頻繁に行われているという。設備を見せてもらうと、銅線コイルを切ったり、削ったりして小気味よく加工や曲げをしている様子がみられた。

「選ばれる工場」になるために

衣浦はこれから新世代HVユニットのフェーズイン工場になる。聞きなれない言葉だが、新たなユニット部品のラインを立ち上げ、海外を含めた他工場へ横展開する役割を担うことになる。衣浦ではすでに海外生産の準備に向けてポーランド工場からの実習生を受け入れている。不具合をつぶしこまなければ、海外への展開などできない。不具合を解決することは、衣浦から海外に仕事を移管することであり、自分たちが苦労して獲得した仕事を失うことだと言える。しかし、それは同時に工場の競争力を高めることにもつながる。

秋の労使協議会の中で、豊田はこう話している。

豊田:
「国内生産が伸びない中、新しい仕事を獲得するために、一丸となって頑張っている姿を間近に見てきました。自分たちの仕事を守るのではなく、海外に移管するために、不具合と格闘する姿もありました。トヨタの内製工場だからといって、『仕事があるのが当たり前ではない』と感じてくれている。ごくごく普通のことが嬉しかったのです。」

衣浦の現場には、「今の仕事ではもたない」「新しい仕事を取りにいかなければ」という危機感の下に、工場が一丸となって、新たな挑戦に取り組む姿があった。工場長の新美はこう話す。「新たな生産ラインを入れていただいていることに感謝しつつ、漠然とした危機感を持つのではなく、これらの償却が後輩たちの重荷にならないように、今できる改善や将来への仕掛けを皆で悩んでやっていこうとしています。来年も再来年も今以上の姿を見せられるように頑張っていきます」。

生産現場を訪れた後、豊田は事務館にも顔を出し、その場で呼ばれた2030代の数名の若手社員と懇談を行い、ビーチバレーボール部の練習施設にも立ち寄ったという。

 繰り返しになるが、前回、豊田が衣浦工場を訪れたのは2017年3月。その時の衣浦は多くのラインが連続3交替となり、休日出勤も頻発するなど大変な状況にあった。今は仕事量も減っており、1直になったラインすらある。2直が1直になると夜勤の手当もなくなり、給料が目減りする。自らの生活に直接の影響が出るからこそ、現場ではリアルな危機感も生まれる。2017年は忙し過ぎて大変な状況だったが、今は「クルマをつくりたくてもつくれない」という意味で大変な状況にある。この状況を打破するためには競争力をつけて、「選ばれる工場」にならなければならない。そのためには、どんな仕事でもやる。衣浦で豊田が見たものは、生き抜くために変わり続ける現場の姿だったのではないか。衣浦を後にするとき、豊田はこう語った。「以前とはまるで別の工場だ」。

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