コラム
2019.03.22

Athlete Stories ジャリッド・ウォレス選手 「不可能な夢への挑戦」

2019.03.22

ジャリッド・ウォレスは、1990年、全米最古の公立大学であるジョージア大学で有名なアメリカ・ジョージア州北東部のアセンズ市で生まれた。ウォレスは16歳の若さですでに陸上選手として才能を開花させ、州の中距離走の高校生チャンピオンになっていた。スポーツへの情熱にあふれ、ハリウッドスターのように爽やかなルックスと性格で注目を集める存在だった。

※本記事は、トヨタグローバルニュースルームに2019年3月22日に掲載されたものです

4年間で12度もの手術

ジャリッド・ウォレスは、1990年、全米最古の公立大学であるジョージア大学で有名なアメリカ・ジョージア州北東部のアセンズ市で生まれた。ウォレスは16歳の若さですでに陸上選手として才能を開花させ、州の中距離走の高校生チャンピオンになっていた。スポーツへの情熱にあふれ、ハリウッドスターのように爽やかなルックスと性格で注目を集める存在だった。

そんな2006年の温かい春の日に事件は起こった。

暖かい日差しの中、ランニングシューズを履きトラックに出て走りはじめたウォレスは直感的に「今日は調子がよさそうだ」と思った。しかしほどとなくして、突然足に激痛が走った。よろめきながらも走り出してはみたが、あまりの痛みにその場に倒れこむ。悶えながら右足のすねを掴み、突如として襲ってきた原因不明な痛みに悲鳴を上げた。

「何年もの間、疲労骨折だと言われていました。2007年になって初めて慢性コンパートメント症候群であると診断を受けました。ふくらはぎの組織の圧力が非常に高くなることで、神経の働きと血流を圧迫してしまう病気です」と説明する。

医師からは、痛みから解放されるために手術を受けることを薦められた。再び走れることを願って、手術を決断する。同年12月に手術が行われたが、術後は様々な合併症に悩まされ、ランナーとしての復帰には時間を要した。

「結局ひざ下の筋肉の60パーセントを失いました」

その後4年におよび12度もの手術を繰り返す試練の始まりだった。

「人生で一番つらい時期でした。また足を使えるようになりたい、と願いながら再生手術を繰り返し受けました。手術を受ければ、ひと息ついて競技場に戻れると思っていたんです。ところが走るどころか歩くだけでも痛みがありました。」

何を試しても痛みは止まず、何よりも大好きな陸上に戻ることができず、ウォレスは完全に打ちのめされた。失望感から逃れるため時に泥酔し、やり場のない感情と向き合えずにいた。

「運動と走ることが私の人生の全てでしたから、それを失うことは人生を失うも同然でした。」

過去の悲痛な経験を振り返りながら、ウォレスは語った。

そして、ウォレスはついに右足を切断するという厳しい決断を下した。

「これからの人生を自分はどうしたいのかと考えていた時期でした。もうとにかく前に進みたかったんです。何をするにも私の行動の全てを痛みに支配されていましたから。走れるようになるかなんてことより、また普通に生活ができるようになりたかったのです。」

2010年にいよいよ足を切断する手術が行われた。当時まだ19歳だったウォレスにとって、じつに、11回目の手術だった。すぐ後には義足を合わせるための手術も行われた。片足のない生活は、それまでの人生で全く想像できるものではなかった。

「手術の後、買い物に行ったときのことです。まだ義足もなく松葉杖を使って歩いていました。私をジロジロ見る子どもたちの視線を感じました。かわいい女性も見かけたのですが、以前とは違って自信がありませんでした。片足のない私を好きになってくれる子なんているのだろうかなどと考えていました。」

スポーツの中で見つけた自分

打ちのめされていたウォレスを再び立ち上がらせたのは、やはりスポーツだった。

片足を失ったわずか15ヶ月後には、陸上競技の国際大会の表彰台に立っていた。2011年に獲得した初の金メダルは、パラパンアメリカン競技大会での世界記録更新でもあった。

その大会後は、ロンドン2012パラリンピック、リオデジャネイロ2016パラリンピックやその他多くの陸上競技の国際大会に参加した。

競技に出続けるモチベーションの裏には育った家庭環境が影響している。
母親のサビナは、元全米代表の長距離ランナーで、子どもの頃には週末のトーナメントの試合にウォレスを連れて行ってくれたという。父親のジェフは、ジョージア州の女子テニスチームのヘッドコーチで、女子テニス界では3人しかいない600勝以上を上げたコーチの一人だ。父親の影響を受けてか、ウォレスは将来コーチになりたいという夢がある。

「『やがて全てがきっとうまく行くようになる』と苦しいときほど、父はそばでいつも勇気づけてくれました。私が知らないところで父が重荷を背負ってくれていたのです。父が泣き崩れることもあったそうですが、そんな姿を見せたことはありませんでした。」
片足を失い、自分を見失っていたときに受け止めてくれたのは家族だったとウォレスは語る。「両親とは苦しみも喜びも共にし、今でもお互いを支えあっています。私はとても恵まれています。両親なくして、今日の自分はありません。」

「陸上は私の人生の大半を占めています。赤ん坊のとき、母はマラソンのトレーニングと言って私が乗るベビーカーを押して走っていたぐらいですから。」と母の影響もあり、陸上は身近なものだった。

ところが、最初に打ち込んだのは、父の影響で始めたテニスだった。「ランニングはそのための体力作り。陸上に可能性を感じ始めたのは、高校で試合に出るようになってから。それからすっかり夢中になりました。」
陸上におけるウォレスの活躍は、めざましかった。2013年に仏リヨンの大会で4x100mリレーに出場、世界新記録で金メダルを獲得。「リレーのメンバーに選ばれたばかりか、世界新記録で金メダルなんて最高でしたね。」

続いて、2017年に世界選手権の200m走で再び金メダル。

「妻も観ていましたから、ゴール後すぐに彼女のもとに駆けつけ一緒に喜び合いました。そのときの興奮は今でも忘れられません」と言い終えると、インタビューに同席するリア夫人に優しい笑顔を向けた。

2度のパラリンピック

6歳のときに、アトランタ1996オリンピック大会を観て、いつか出られたらなあとは思っていました。物心つくようになると無理なことだと感じましたが、自分の夢ではありました。」

今では2度のパラリンピックを経験している。ロンドン2012、リオ2016の予選通過は容易ではなかったが、素晴らしいコーチ、医療・技術スタッフ達に恵まれた。

長い時間を共にするうちに、彼らは家族のような存在となった。「9年も共にしたコーチは私の兄みたいなもの。感謝の気持ちは言葉では表しきれません。パフォーマンスだけではなく、人としての私をいつも気にかけてくださっています。」

ウォレスはパラリンピックをどう思っているのかと尋ねると、パラリンピックはグローバルレベルで障がいに対する意識を高めるための、唯一の手段だと捉えているそうだ。

「パラリンピックは私にとって、大きな存在です。障がいを持つ同士に競い合う機会を与え、それを全世界で喜び合おうというのがパラリンピック。私が病気から立ち直るための助けとなり、追う夢をも与えてくれました。」

ウォレスは自らの経験を通じて、他の障がい者たちが直面する苦難も理解している。

「あるときから自分が障がい者であることを受け入れるようになりました。今では胸を張り、興味本位に私をじっと見る人たちと対話するようにしています。20年間は健常者でしたが、今では障がい者です。両方を知る者としてユニークな視野を持ち、彼らの気持ちに寄り添うことができます。社会の障がいに対する理解が深まることを願って、“壁(バリア)”を取り払うためにコミュニケーションを積極的にしています。私の一歩が同士のためになるのです。障がいに対する社会の考え方は良い方向に変わってきています。これが続いていくことが私の願いですね。」

トヨタと分かち合う情熱

ウォレスとトヨタの出会いは、チーム・トヨタに加わるずっと前のこと。ウォレスの初めての愛車は1996年式カローラだった。現在は憧れのタンドラに乗り、ドライブを楽しんでいる。実際にトヨタとの歩みを始めたのは数年前だ。きっかけは、当時ウォレスの義足の設計を担当していた企業が開いたイベントだった。

ウォレスはモビリティ企業を目指すトヨタのミッションを実現する強力なサポーターだ。
「モビリティ企業を目指すという発表はすごいことです。私にとって“モビリティ”とは、“選択の自由が与えられること”だと思いますし、すべての人にチャンスがあるというインクルーシブなコンセプト。トヨタの情熱とアプローチに強く共感しています。この“カイゼン”は、向上心を持つこと、さらに上を目指すことであると私は捉えています。」

「私は不可能なことを常に追い求める人間です。“Start Your Impossible”“Start(スタート)は、(バリア)が崩れていくという意味を感じます。夢は大きいほど実現できるか自信を持てないことがあります。でも“スタート”してみなければ夢は叶いませんよね。足の切断後、パラリンピアンになると夢を抱いたときこそ、私がスタートした瞬間です。次のチャレンジは、パラリンピックでのメダル獲得です。」

インタビュー後の写真撮影で、ウォレスは義足を隠さずStart Your Impossibleのロゴの前でポーズを取る。

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