2019.11.27

田原工場を歩く~豊田章男の見た景色②

8月末、社長の豊田章男は、衣浦(きぬうら)工場(愛知県碧南市)を訪れた(INSIDE TOYOTA #40)後、すぐにその足で田原工場(愛知県田原市)に向かった。

田原市の人口は約6万2000人で、愛知県の南端、渥美半島に位置する。田原工場は高級車ブランドのLEXUSや大型SUVのランドクルーザーなどの車両に加え、基幹部品であるエンジンを生産している。2018年の車両生産台数は約30万台。稼働開始は1979年とちょうど40年前。敷地面積は403万平方メートル、東京ドーム80個分の広さがある。

トヨタイムズの詳報・秋の労使協議会の記事(INSIDE TOYOTA #37)でも紹介したが、同工場はバブル景気最盛期の年間約60万台をピークに生産台数が減少し、時期によっては一部のラインで1直生産と2直生産を繰り返す状況が続いていた。

そんな折に持ち上がったのが、LEXUSのコンパクトクロスオーバーSUV NXのリンク生産(同一車種の複数工場生産)だった。NXを生産してきたトヨタ自動車九州(福岡県宮若市)では、好調な受注に生産が追い付かず、お客様の「納車待ち」状態が続いていた。この状況を打開するために名乗りを上げたのが田原工場だった。このプロジェクトは、後に関係者の努力により、2019年8月を予定していた稼働開始を3カ月前倒しで実現することになる。会社人生のほとんどを田原工場で過ごす工場長の伊村隆博。プロジェクトの意義を説明する口調に熱が入る。「我々は現在の従業員8000人体制を守っていかないといけない。それに、この地域の仕入先さんには我々との取引を中心にやりくりしているところもある。我々は田原という地域とともに生きているんです」。NXリンク生産は田原工場にとって、石にかじりついても成功させなければならないミッションだったのである。

社長の豊田と田原工場長の伊村

田原に届いた五輪内定の知らせ

社長の豊田の後を追う形で、我々編集部が同工場を訪問したのは9月23日。同月15日のマラソングランドチャンピオンシップ(MGC)で陸上長距離部に所属する服部勇馬(田原工場工務部)が東京五輪男子マラソンの日本代表内定を決めた1週間後であり、正面玄関には垂れ幕やたくさんの祝花が飾られていた。陸上長距離部は田原を練習拠点としており、服部をはじめ、メンバー全員が田原工場で働いている。市内では、服部を応援するパブリックビューイングも開かれ、田原から五輪の切符を手にしたアスリートが出たことに地元は湧いた。

東京オリンピックへの切符を手にした服部

奇しくもMGCと同じ日、市内では「田原祭り」が行われた。服部の走りを見るために東京に訪れていた伊村は、ゴールを見届けるや否や、とんぼ返りで祭りに駆け付け、メインイベントの手筒花火を打ち上げるメンバーの一人としての大役を果たした。田原が一年で一番の盛り上がりを見せる大切な日。伊村にとっては、決して休むわけにはいかない行事だった。「地域とともに生きる」という伊村の言葉の重みを感じる一幕だ。

試作車に見た工場の願い

祝花のすぐ隣に展示されていたのが、LEXUS GXFなる大型SUV。工場40周年を記念してクルマ好きが集まり、米国などで販売しているLEXUS GXを手作りでスポーツタイプに仕上げたという。

田原工場のクルマ好きでつくり上げたLEXUS GXF

もちろん販売しているクルマではない。プロジェクトを立ち上げたのは品質管理部。同部の石井宏尚は理由をこう説明する。「社長もよく『チャレンジ』と言っているし、だったら、車両工場がつくりたいクルマをつくってみようと考えたんです」。

昨年秋に着手し、12月にはプロトタイプもつくって、ラインオフ式まで実施した力の入れよう。8月3日の40周年行事に間に合わせ、山下政良 田原市長をはじめ、地元の人たちにも披露したという。もしも工場が繁忙期にあったら、こういったプロジェクトは行われていただろうか。クルマがつくりたくてもつくれない。「自分たちが夢のあるクルマを提案することができれば、新しいクルマをつくらせてもらえるかもしれない」。GXFには、田原工場の従業員のそんな願いが込められているように感じられた。

垣根を越えた働き方改革

田原工場でも、社長の豊田と全く同じルートをたどることにした。豊田が最初に足を運んだのは、車体部レクサスボデー課が新規で立ち上げたNXのラインだ。「こんにちは」。入口で我々を迎えてくれたのは、部長の岩原信隆と次長の千葉薫。同工場を訪問するにあたり、副社長の河合満が紹介してくれたのが千葉だ。18歳で入社し、田原工場で働いて40年以上になる。今回も現場のたたき上げの「おやじ」が案内をしてくれた。

現場に入ると、入り口からすぐ目につくところに看板がぶら下がっている。そこには、「One トヨタ One 田原 One 車体 田原の未来を自ら築く 垣根を越えた働き方改革…」 といったスローガンが書かれていた。

工場内に掲げられた車体部のスローガン

岩原が補足する。「田原の車体部だけじゃなくて、他工場の車体部からも人が集まってくれて、田原のために、NXを待つお客様のために力を貸してくれました」。トヨタには、塗装や車体などの各工程(ショップ)が、工場横断的に生産技術や生産手法を共有する仕組みがある。この取り組みを「ショップ軸活動」と呼んでおり、グローバルに連携を行っている。今回は、高岡、堤、元町(いずれも愛知県豊田市)の車体部メンバーが工場の垣根を越え、田原のチャレンジに手を貸してくれたのだ。

大先輩のエール

田原工場はこれまでLEXUSのフラッグシップセダン LSなど、FR(後輪駆動)車を生産してきたが、NXの生産に伴い、FF(前輪駆動)車専用のボデーラインを新たにつくった。志願してこのプロジェクトに参加し、リヤボデーを製造するラインを立ち上げたSX(組長)の高桑新吾が代表して車体部の取り組みを説明してくれた。通常なら、設備の導入や整備は生産技術(生技)部隊が行う。車体部などの製造部隊はその設備を使ってクルマをつくる役割を担っているが、話が急に決まったこともあり、生技はリソーセスが不足。人のやりくりを待っていては、当初目標としていた8月の立ち上げに間に合わないため、製造が生技と一体になって、これまで経験したことのない生準(生産準備)業務に取り組むことになった。

だが、いきなり壁にぶつかる。製造のメンバーは、ラインのシミュレーションに使う3Dソフトをそもそも触ったことがなく、一から勉強する必要があった。そこで、高桑をはじめ多くのメンバーはソフトの使い方や生産準備に必要なスキルを学ぶために元町工場に移った。2018年7月にプロジェクトは始まったが、最初の半年は全く形にならず、失敗の連続。不安ばかりが募り、気づけば年を越そうとしていた。

田原工場車体部では、年末に「大納会」を行っており、副社長の河合が出席するのが恒例になっている。今年も参加した河合は、高桑らNX立ち上げメンバーの話に耳を傾け、熱心に相談に乗ってくれたという。「僕も入社した時はいろいろなことをやった。やるしかなかったから不安でも頑張ったが、今思うと、それが自分の知識になり、経験になったんだ」。現場のことは何でも知っている河合でも、かつては今の自分たちと同じような悩みを持っていた。大先輩の体験談にメンバーは励まされ、腹も決まった。「安く・早く・軽く」をキーワードに、優先順位を確認し、治具やロボットなどは高岡工場で使わなくなったものを活用するなど、取り組みをスピードアップ。総勢26人の立ち上げメンバーのうち17人は田原の技能員と技術員でやってのけた。

豊田は、高桑に「NXの立ち上げを自分がやることになったときどう思った」と聞いたという。「僕たち、つくれるクルマがなくて困っていました。でも、仕事を覚えていけば、新しいクルマがどんどん入ってくるんだなと(感じました)。本当にうれしくて、やってやろうという気持ちになりました」と高桑は答えた。

車体部のメンバーの話に耳を傾ける豊田

「社長、大変忙しいので、お体ご自愛ください。我々が現場で一生懸命頑張りますので」。別れ際、高桑が豊田に声をかけた。豊田はおもむろにポケットから「令和」と書かれたモリゾウステッカーを10数枚取り出し、手渡した。もらったステッカーは、ラインを立ち上げたメンバーに配って回った。高桑がもらった一枚は今、彼のヘルメットの右側面に貼られている。

高桑のヘルメットに貼られたモリゾウステッカー

覚悟を決めたAGV化へのチャレンジ

次に訪れたのが、車体フロア部分の製造現場だった。ここで工程物流を担うAGV(Automated Guided Vehicle:無人搬送車)の改善について説明してくれたのがEX(班長)の白川靖伯。AGVが頻繁に停止し、その度に処置に時間をとられ、チームメンバーのフォローに十分な時間を充てられないという悩みを抱えていた。「自分のような苦労を後輩にはさせたくない」。そんな思いが白川を動かした。

白川が自らプログラムしたAGV

LSのある工程では、部品を取り出し、台車に載せ、次の工程に運び、また取り出してセットするという作業に3人の人手がとられていた。全てAGVに置き換え、NXへの導入を目指したが、外部に発注するとラインが止まっている週末に工事を進めるため、工期に1年以上がかかる。「立ち上げに間に合わない」。覚悟を決めた白川は、400ページ以上に上るマニュアルを読み込み、自らプログラムを作成。平日にも工事を進め、5月の立ち上げに間に合わせた。「レクサスボデー課では、AGVによる自動化ができていない工程がまだ7工程ほど残っているので、何とか3工程まで減らせるようにしていきたいと思います」と意気込む白川。取り組みを加速させ、後進を育成するため、必要な部分だけを抜粋し、写真を多用して分かりやすくしたオリジナルマニュアルも作成した。

説明を聞いた豊田は、「工場構内の建屋から建屋への物流にも自動運転技術が使えるな」と感想を述べたという。CASEに対応するための技術と、からくりなどの現場の知恵がセットになると、工場は新たなタイプの実証実験の場になるかもしれない。現場を支えるメンバーとの交流通じて、そんな発想を得たようだ。

「どんなクルマも流す」“塗装屋”がやった組立の挑戦

次にLEXUSの組立工場に向かった。FR車とFF車を混流する天吊り型コンベアの改造について、豊田に説明をした主任の碓井瑞生に話を聞いた。入社から10年以上、塗装専門でやってきた“塗装屋”だ。田原が生き残りをかけたNX生産プロジェクトだったが、時間もなければ、人もいない。「一番大変なところをやらせてほしい」と自ら手を上げ、経験したことのない組立業務に取り組んだ。誰も取り組んだことのないプロジェクトを前に、「専門分野」にしがみついていては生き残れない。碓井の言葉にはそんな決意がにじんでいた。

「どんなクルマ」も流す天吊り型コンベアを豊田に説明する碓井

セダンのLSに比べ、小型SUVのNXはホイールベースが短く、車高は高い。そのため、既存のコンベアでは、ラインに載せることができなかった。そこでクルマを支える4本の脚を長くし、スライドするようにしたほか、後付けの「アタッチ」という部品を車種ごとに用意するなどの工夫を施し、NXに限らず、搭載できる車種の幅を広げた。豊田に対して、碓井はこう宣言した。「このラインは何でも載ります。どんなクルマでも流します」。豊田は碓井の肩に手を置き「なんでも載るな?」と白い歯をのぞかせ、同行していた河合は「心強い」と目を細めたという。「NXだけじゃ終わらせない」。それは田原で働くメンバーに共通の想いだ。新しい車種が入っても、生産のピークは何カ月も続かない、いつまでも一つの車種に頼っていられないことは、身に染みてわかっている。だからこそ、次の時代を見据えた仕掛けを織り込み、新しいクルマを取りにいく。

その後、豊田は「からくり」を活用した手作りの台車や内製でコストを抑えたシートフレームの搭載機、さらには、試作品を自分たちの手でつくったシューター(高低差を利用して部品などを流す機材)など、現場の創意と工夫が詰まった改善アイテムに目を見張り、「自分たちの力でよくやってくれたね」とねぎらいの言葉をかけたという。

「田原に仕事をさせてください」

次の工程に移るときに、NXリンク生産の決意を説明してくれたのが、工長で品質係を務める田村佳則。入社して30年以上、田原工場一筋で働いてきたベテラン社員だ。そして彼こそが、秋の労使協議会で豊田が紹介した、「社長、何でもいいので仕事ください!」と声を上げた張本人。彼が豊田に伝えたことを少し詳しく紹介したい。

田村:
「今までは、必要なものは外注に頼めばいいじゃないかという考え方があったと思います。心のどこかでLEXUS工場はつぶれないという何の根拠もないおごり、油断、そして慢心というものが少なからず存在していました。『100年に一度の大転換期』、そして『生きるか死ぬか』の今、我々自身が変わらなければ、田原LEXUSの未来はありません。『金を使うなら知恵を使おう』。『Change LEXUS』を合言葉に、NX立ち上げを死に物狂いで頑張ってきました。自分たちで使うものは自分たちで考え、自分たちの手でつくる。これは昔、我々が先輩たちに教わったトヨタの姿、トヨタらしさではないでしょうか。今後このトヨタらしさにこだわって活動することで競争力強化につなげ、田原LEXUSの未来を自分たちの手で切り開いていきます。何でもやります。どんなクルマでもつくります。ぜひ、我々田原に仕事をさせてください。」

NXリンク生産に込めた決意を語る田村

「すごいね。誰かに言わされたの?」と思わず問いかける豊田に対して、田村は「私自身の気持ちです。明日にでも、いつでもいいので来てください。どこかが変わっているはずです」と胸を張った。

社長を相手にどんな想いで伝えたのか聞いてみた。「世界的にセダン系の生産が落ちていて、田原では1直生産が繰り返し行われていました。『100年に一度』、『生きるか死ぬか』と言われていますが、我々はその前からずっと存続の危機を味わってきました。ここ田原で、この仲間でずっと仕事がしたい。せっかく社長が来られるので、ぜひ言っておこうと思い言わせていただきました。生産性や競争力を上げて、田原が頑張っているということをアピールしたかったんです」。

秋の労使協議会の中で、豊田は衣浦、田原の両工場を訪れた感想をこう話している。

豊田:
「嬉しいこともありました。生産現場では、『選ばれる工場』になるために、自分たちで稼がなければならない。そのために競争力を向上させなければならない。そう思って、必死に、しかし、明るく頑張っている人たちがたくさんいました。国内生産が伸びない中、新しい仕事を獲得するために、一丸となって頑張っている姿を間近に見てきました。自分たちの仕事を守るのではなく、海外に移管するために、不具合と格闘する姿もありました。田原工場から帰る時には、ある社員から『社長、何でもいいので仕事ください!』と声をかけられました。トヨタの内製工場だからといって、『仕事があるのが当たり前ではない』と感じてくれている。ごくごく普通のことが嬉しかったのです。」

生産現場はお客様との直接の接点はない。しかし、自らクルマをつくっている工場のメンバーは、どれだけクルマが売れているか、体感でわかる。お客様の存在を肌で感じているから危機感も人一倍持っている。それに、社長が次に田原に来てくれるのはいつになるかわからない。そういう必死さが、言葉になって表れたのではないだろうか。

その後、豊田はLEXUS品質の最後の砦である検査工程に入った。そこでは、蛍光灯を用いて微細なキズを見つける作業やドアの開閉時の音の確認など、人の五感をフル活用する現場を見て回った。

LEXUSの検査工程で説明を受ける豊田

「100年に一度」なんかじゃない

田原工場はバブル景気の最盛期には、年間約60万台の完成車を生産していたが、現状では、ほぼ半減している。2013年には完成車を生産するラインを1つ閉じており、最大約1万1000人いた従業員は、今では約8000人にまで減った。新車が立ち上がると、連続2交替となるも、数カ月で1直生産に逆戻り。その都度、夜勤の手当てがなくなり、現場の従業員の手取りは減少する。仕事が減れば、従業員はトヨタ自動車九州などほか工場の応援に当たる。長い時には、半年にも及ぶ。田原工場では、工場の近くに家を構える従業員が多く、他工場への応援は、家族と離れて過ごすことを意味している。

だから、他の工場には負けられないという切迫感は人一倍強い。工場長の伊村は語る。「従来は内製工場同士の戦いだったが、今はもっと広く、ボデーメーカーさんも含めて切磋琢磨しています。そして、『工場単独』で儲かっているかどうかみんなで見えるようにして、流れが変わってきたような気がします」。たとえグローバルで販売台数が増えても、田原で生産が増えないことには生活も変わらない、この地域を守っていくこともできない。工場メンバー全員が田原という地域とともに生きることに必死になっている。

「100年に一度の大変革期」に直面している自動車業界。しかし、これまで田原の従業員たちは、自分の生活がクルマの売れ行きによって左右されることを肌で感じてきた。「仲間と一緒に働きたい」。「地元で家族と過ごしたい」。従業員一人ひとりが、心の底からそう感じているからこそ、自ら手を上げて部署の壁を超える者、専門領域をはみ出て誰も取り組んだことのない挑戦に臨む者がいる。毎月募集する改善提案制度「創意くふう」の提出率はほぼ100%。危機感、そして「田原への愛」が彼らを突き動かしているといえるかもしれない。

豊田が子供たちに語ったこと

ここで、今年10月30日、静岡県湖西市の鷲津中学校で行われたトヨタグループ創始者 豊田佐吉翁の顕彰祭で、未来を担う子供たちに豊田が届けたメッセージを紹介したい。

豊田:
「ちょうど今、東京ではモーターショーが開催されております。いろいろな業界の方々にご参加いただき、クルマだけではなく、『未来の暮らし』を体感できるテーマパークにすることで、100万人のお客様にお越しいただけるイベントを実現しようと新たなことにチャレンジしております。うまくいくかどうかはわかりません。わかっていることは『このままではいけない』ということだけです。これからは『何が正解かわからない時代』だと思います。だからこそ、正解を求めるのではなく、『まずやってみて、それから考える』、『間違っていると分かれば引き返して、また違う道を探す』ということが大切になると思っております。たくさん挑戦をして、たくさん失敗をして、たくさんの工夫を重ねてください。私は『それが未来を拓く力になる』と信じております。」

うまくいく保証はない。それでも、「このままではいけない」という危機感から、未知の領域に挑戦する衣浦工場や田原工場の従業員たち。豊田が子供たちに語った言葉は、そんな彼らの姿に重なる気がした。豊田がしばしば口にするたとえがある。「山のふもとで見ていた景色と、7合目まで登って見える景色は全く違う。登った者にしか見えない景色がある。そこから次に進むべき道が見えてくる」。両工場の従業員に今見えている景色は、きっと1年前に目にしていたものとは違うのではないだろうか。そして、見えているものが変わったのは彼らだけではない。両工場から帰ってきた豊田は「工場の景色が変わった」と話した。それは、「あって当たり前のものなど何もない」という意識をもった、従業員一人ひとりがつくり上げた景色と言えるかもしれない。