2019.04.24

ニュルブルクリンク取材同行記(後編)

香川編集長がドイツ、ニュルブルクリンクのレースを取材してきました。

CMの限られた秒数には収まらなかった取材結果を約10分の映像にまとめましたが、
その映像だけでも伝えきれていないことが沢山あります。

取材に帯同したトヨタイムズ編集部員が、少しでも多くの方に伝えたいと同行記として記事にまとめました。

前編では、編集長が、初めてニュルブルクリンクへ行き、レースを目の当たりにするところを伝えました。

後編では、編集長がチーム関係者へのインタビューを通じて
「なぜ今トヨタはレースに出る必要があるのか?」に迫っていくところを伝えます。

8.トヨタのテストドライバー

テストドライバーの矢吹久さん

ピットでレースの現場を体感し、いよいよチーム関係者へのインタビュー取材が始まる。
最初に登場するのは矢吹久、トヨタ自動車のテストドライバーだ。

矢吹は、今回のレースではドライバーでなくプロジェクトのベテランメンバーとして
チームのサポート役にまわっていた。

矢吹は、GAZOO Racingが初めてニュル24時間レースに挑戦した2007年から
プロジェクトに参画している。
その時はメカニックとして参加していた。

その後も、矢吹は、ずっとチームに加わっており、2017年にはドライバーも務めた。
2019年、TOYOTA GAZOO Racingは、GRスープラでの24時間レース参戦も計画しているが、
矢吹は、そのドライバーの一人にもなっている。

モリゾウが乗ったアルテッツァ109号車
(写真は2007年のニュルブルクリンク24時間耐久レース。左のメカニックが矢吹。車両はモリゾウが乗ったアルテッツァ109号車)

映像の中で矢吹の肩書きは “テストドライバー”と紹介されているが
これはトヨタ自動車での普段の仕事を指している。

前編で名前の出たチーフメカニックの関谷や平田も普段は同じくテストドライバーである。

テストドライバーとは「磨き続けた運転技能でクルマと会話が出来る人」。
インタビュー映像には表れていないが、彼らの話を聞くと、そんな人達だと感じた。

車両開発の際、テストドライバーは、そのクルマを運転し、ハンドルを握る手、
ペダルを踏む足、シートに座るお尻など、あらゆる感覚を通じてクルマや道からの声を聞く。

そして、目指す乗り味と現状の違いを見つけ出し、
どこにどんな手当てを施したら目指す味に近づくのかを想像する。
それを人に伝えるための言葉に翻訳して周囲のエンジニア達と共有したり、
時には自身の手で直したりもする。

直してみたら、思ったとおりの味が出せているかどうか、またクルマを走らせて確かめる…、
そんな作業を繰り返してクルマをつくっていくのがテストドライバーの仕事であるという。

クルマが良くなったかどうか、直す前と同じ運転をしないと、その違いは判断できない。
だから、彼らは、何度も同じ走りを再現できるような運転技能を持っている。

決して、速く走れるということだけが技能ではなく、
どんなスピードであっても、同じ走りを再現できるかということが大切なのである。

また、クルマや道から伝わってくる声を的確に感じ取れるよう体の中にあるセンサーを常に研ぎ澄ましている。
そのために日頃から運転訓練を重ねているという。

矢吹たちは、今回のようなレース参戦の時以外にも、ニュルブルクリンクに来て、
開発車両のテストをしたり、自身の運転技能向上のためのトレーニングをしていると言っていた。

9.テストドライバーが始めた挑戦

トヨタ自動車のニュル耐久レースへの挑戦は、
こうしたテストドライバー達の取り組みから始まり、今も続いているものだった。

TOYTOA GAZOO Racingのウェブサイトに以下のような記載がある。

モリゾウこと豊田章男とマスタードライバーの故・成瀬弘を中心に2007年発足したのが「GAZOO Racing」である。その根底はモータースポーツを通じて人とクルマを鍛え、もっといいクルマ作りに繋げること、つまりモータースポーツの“原点”そのものである。
成瀬は「技術を伝承し、人材を育成する場としてレースは最高の舞台。大事なことは言葉やデータでクルマ作りを議論するのではなく、実際にモノを置いて、手で触れ、目で議論すること」と語っているが、そのステージとして選ばれたのが、世界最高峰の草レースと呼ばれる「ニュルブルクリンク24時間レース」への挑戦だった。

今回の取材記映像の後半にも「成瀬弘」(なるせ ひろむ)という名前が出てくる。
また、その名前は、2019年1月14日にトヨタイムズに掲載された
モリゾウのつぶやき#6「ニュルとスープラとモリゾウ」にも出てきた名前である。

<「モリゾウのつぶやき」抜粋>

思い起こせば、20数年前、成瀬さんから誘われて、運転訓練を始めた時の相棒が80スープラでした。初めてニュルを走った時、前を走る成瀬さんのクルマのテールランプとバックミラーばかり見ながら、必死の思いでピットにたどり着いたこと、本当に怖かったことを、今でもはっきりと覚えています。「レースに出てもレースはするな」。成瀬さんから言われた言葉です。

モリゾウこと豊田章男の言葉からも分かるように、成瀬弘は、
豊田がドライバーになるきっかけを与えた人であり、運転を教えた先生でもあった。

ピットに飾られていた、成瀬弘さんの写真
<ピットにはメンバーを見守るように成瀬の写真がかけられていた>

成瀬もまたトヨタ自動車のテストドライバーの一人であり、
そのトップとされるマスターテストドライバーと呼ばれた人であった。

豊田章男と成瀬弘については2人の関係が記された本も出版されている。
(『豊田章男が愛したテストドライバー』 稲泉連著 2016年3月7日 小学館刊行)
そこには豊田が運転訓練をはじめるきっかけとなった成瀬からの言葉が書いてあった。

「運転のことも分からない人に、クルマのことをああだこうだと言われたくない」
「月に一度でもいい、もしその気があるなら、俺が運転を教えるよ」

この言葉から始まった訓練の話を豊田本人から聞いたことがある。

最初は、ブレーキを目いっぱい踏む訓練や、ひたすら同じコーナーを曲がる訓練、
時には横転したクルマから逃げ出す訓練など、ひたすら基礎訓練の日々が続いたという。

その後、自身の“つぶやき”でも書かれているように、
成瀬や他の先輩テストドライバーの後ろを追走する訓練をはじめたと言っていた。

矢吹や平田は、この頃から成瀬と共に車両評価をしていたメンバーであった。

豊田が運転訓練を積み重ね数年経った2007年に、
成瀬と豊田そして仲間の評価ドライバー達が始めたのが
ニュル24時間耐久レースへの挑戦だったということである。

「技術を伝承し、人材を育成する場としてレースは最高の舞台」
成瀬が当時語っていたこの言葉が、そのまま語り継がれ、
10数年経ったニュルブルクリンクの現場でも、体現され続けていた。
矢吹から始まる現地でのインタビューで香川編集長は
そのことを深く理解していくことになった。

10.「レースに出るのは安心・安全の為」という違和感

矢吹へのインタビューで編集長は、いきなりストレートな質問をした。
「危険を伴うこのレースにトヨタが参戦する理由はなんですか?」

矢吹はこう答えた。
「ここのコースは世界の道をほとんど網羅しているようなコースになってます」
「ここで(ニュルで)安心して、安全に走れれば、もうほとんどの道は走れると思います」

この答えをきっかけに編集長は「ニュルという道」について、もっと知りたいと思うようになる。
そして編集長には、もうひとつここで“引っかかったこと”があった。

編集長の頭には「レースは勝つためにやるもの」「勝つためには速く走る」そして
「速く走るためには多少のリスクは冒す」というレースへの固定概念のようなものがあった。

それなのに矢吹から返ってきたのは「安心して安全に走れれば」という言葉。
なぜレースなのに「安心・安全」なのか?編集長は、このことに引っかかりを感じていた。

石浦宏明との、インタビューでも、そんな話に至っている。

プロレースドライバー 石浦宏明

石浦は、矢吹と違ってプロのレースドライバーである。
日本のトップカテゴリーレースを走るドライバーであり、
2017年には日本最速のレースであるスーパーフォーミュラでチャンピオンを獲った選手である。

ニュルのプロジェクトには2011年から参画しており、ここの道の経験も深い。

少し話しは逸れるが、彼は、新婚旅行がニュルだったらしい。
2010年に新婚旅行で24時間レースを見に行き、
そこで「ここで乗りたいです!」とGAZOO Racingに申し出て、翌年から本当に乗ることになったらしい。
カメラが回っていない時に、そんな裏話をしてくれた。

そんな石浦に、編集長はニュルの道はどんな道なのかを先ずはじめに聞いていた。

「このコースは、とんでもないところなんですよ!」
「乗り上げて走ったり、ジャンプしたり、とんでもなくクルマに負荷がかかる」
「そこで走ると、国内では全然見えなかった問題点がバンバン出てくる」

日本のトップドライバーからもニュルを表すひと言目は「とんでもないところ」であった。
ただ、それは単に“とんでもなく危ない道”という意味ではなかった。

「クルマにとって厳しい道」であり「いいクルマをつくる上で欠かせない道」という意味で
“とんでもない”という表現を石浦は使っていた。

ニュルの道の意味を聞き、編集長は、気になっていた「安全・安心」のことを切り出した。
「限界の中で安全とは何かを掴むのがニュルブルクリンクだということ?」

石浦は、普段走るプロのチームとの比較でTOYOTA GAZOO Racingのことを説明してくれた。

「他のチームだったら結果を優先して、これぐらいで出しちゃおうって言うのがあるかもしれないですけど、 TOYOTA GAZOO Racingは少しでも問題点があったら完璧に直すまでコースに出さないんですよ。」

この答えに編集長は大きく「なるほど…」とうなずいていた。

映像で、次に出てくるのは、「鬼の形相」「仁王」と前編で称した平田チーフメカニックだ。
編集長のインタビューには、穏やかな表情で答えている。

チーフメカニック 平田泰男

「安心安全なクルマじゃないと、ドライバーがレースに集中できない」
「ドライバーのストレスだとか精神的な苦痛だとかいうのが増えるので…、
それはやっぱりお客様も一緒だと思うんです。」

平田のこの言葉は、普段、市販車を開発している人がレースをやっているからこそ出てくる言葉だと思える。
この話にも編集長は「なるほど…」とうなずいていた。

いくつかの話を聞いて、ピットの中で編集長は話していた。

「極限状況…、それでなければ、出てこないことがある。」
「その見つけたものは、なんにでも活かせるんだよ、多分。安全とか、Fun to Drive のFunの部分とか。」
「この人達の顔を見てたら、なんとなくそれが分かる気がする…。」

ピット作業の様子

11.レースを通じた人材育成

編集長は矢吹へのインタビューの最後にひとつのお願いをしていた。
「僕も、ちょっと(ニュルの道を)体験してみたいんですけど…」

矢吹は「クルマを準備するので明日ぜひ乗ってほしい」と快諾した。

矢吹はテストドライバーとして、市販のGRスープラの味付けも担当している。
翌朝、その1台を準備してくれていた。

挨拶もそこそこに、さっそく編集長は助手席に乗り込み…と映像上は見えているが、
編集長は、しっかり挨拶をし、クルマを準備してくれたことへのお礼を丁寧に伝えていた。

そして、デザインを舐めまわすように見たり、運転席に座ってみたり、
ひと通りスープラをチェックしていた。

そして、矢吹の横に乗せてもらいコースに出発していった。

どんな顔をして乗っていたかは、ぜひ映像を見ていただきたいが、
コースの狭さや、曲がった後の道が見えないコーナー、
高低差の激しさなど、編集長の表情と声から伝わってくる。

200キロを超えた走りでニュルの道を体験した後、編集長は改めて矢吹と話をした。

スープラを運転する矢吹さんと助手席で体験する香川編集長

そこでもまた昨日見たレースの意味についての話が出た。

「レースとなると短時間で結果を出さなきゃいけない。
その環境下で人間は精神面も含め、色々なモノが鍛えられる。」
矢吹が語ったのは、レースという場だからこその人の成長についてだった。

成瀬が言っていた「技術を伝承し、人材を育成する場としてレースは最高の舞台」という言葉に繋がる話だった。

編集長は再確認するかのように
「レースのこの場(での結果)に重きを置いている訳じゃない?」と聞くと
矢吹は迷いなく「そうじゃないです」と即答していた。

こうした「人材育成」をキーワードにした話は、今回の取材で、ほとんどの人から出ていたものだった。

平田は、こう言っていた。
「結果を出すって言うのは、順位とかじゃなくて、どれだけ人を育てられたかというのが一番だと思うんですよ。」
「最終的にいいクルマをつくるのは人なんで…」

12.成瀬弘が残したもの

関谷とのインタビューでは、前編で紹介した「初めてピット作業をする若手への声掛け」の話が出た。
こうした先輩から後輩への声掛けを、関谷自身も若い時に先輩から受けていたと話す。

チーフメカニック 関谷利之

その話の時、編集長は関谷に対し成瀬の名前を出した。
関谷も、成瀬から色々なことを教わっていたという。

成瀬は、2010年、ニュル近郊での事故で亡くなっている。

しかし、編集長がメンバーにインタビューをしているのを側で見ていて、
成瀬は、このプロジェクトの中で生き続けていると感じた。

矢吹も平田もインタビューを受ける時、かなり緊張していた。
普段、カメラを向けられることはないので、当たり前である。

編集長に「なぜトヨタはレースに出るのか?」といった質問をされた時は、
ひと言ひと言、言葉を選ぶように話していた。

しかし、成瀬のことを聞いた時だけは、全く違っていた。
自然と言葉が溢れてくる感じだった。
おのずと表情もやわらかくなり、成瀬との思い出や、成瀬が大切にしていた想いなどを話してくれた。

矢吹は「成瀬さんは、もっといいクルマをつくるためのすごい熱意がありましたね。」と言い、
チーム監督の金森は「職人気質のオヤジという感じでしたね。なんでも自分でやってみないと気が済まない。
そういう姿を見ながら、みんなも育ってきた。」と成瀬の人材育成の様子を語った。

「成瀬と出会ったからこそ、今この場にいることが出来ていて…。
自分のやるべきことは、(成瀬に)教えていただいたことを少しでも多くの人に、
自分が代わりとなって伝承していかないといけない。それだけは常に思ってやっています。」
最後にこう語ったのは平田であった。

こうして成瀬を語るチームの人達の表情を見た時、
この活動の中で成瀬が生き続けていることを強く感じたのだ。

成瀬と共にピット作業をする平田
成瀬と共にピット作業をする平田

編集長も、全ての取材を終えたインタビューでこう語っていた。

「“人をつくる”っていうことは、人をつくったら(そこで)終わりじゃなくて…
“人をつくるという行為を伝承する人をつくる”ってことだと思う。成瀬さんは、その役目を果たされたと思う。」

帰国の途につく時、編集長は、成瀬の事故があった場所を訪れた。
そこには2本の桜の木が植えられている。ドイツの桜と日本の桜が一本ずつだ。

その桜の木の下で、香川編集長は、成瀬にこう伝えたと言った。
「(成瀬さんが)命懸けでやられてきたことは、確実に受け継がれていますよ」

成瀬の事故があった場所

帰り道、香川編集長から「道楽」という言葉は一度も聞かなかった。

コース上に書いたトヨタイムズのロゴと香川編集長のサイン

13.もっといいクルマをつくります

どうしても読み返したくなった文章があった。帰国して、それを探した。

思い起こせば、成瀬さんと親しくお付き合いさせていただいたのはこの10年余りでしたが、
私にとっては20年、30年より深い濃密な年月でした。

成瀬さんと私の関係は、単なる上司・部下といった間柄ではなく、
ときには親父と息子、ときには師匠と弟子、ときには幼いころからの親友、
そしてそのどれもが、お互い大好きなクルマを介しての付き合いでした。

私にとって、成瀬さんとの関係は「かけがえのない宝物」として、
この先もずっと続くものと思っておりました。
いやそんなことすら考えることができないくらいに成瀬さんの存在は私の人生の一部を占めていたと言えます。

それが、6月24日の早朝、あまりに突然の訃報に接し、私は言葉を失いました。
ただただ呆然とするしかなく、同時にやり場のない、深い悲しみに包まれました。

最初に成瀬さんに出会ったのは、私がアメリカ滞在中に、アリゾナのテストコースで
社内の上級運転資格を取得して、日本に帰ってきた時でした。
その時の成瀬さんの衝撃的な言葉はいまでも耳に残っています。

「あなたみたいな立場の人が、運転の基本もわかってないのに、
ちょっとクルマに乗っただけで、ああだこうだと言われるのは迷惑だ!」

「私ら、テストドライバーはいいクルマをつくるために命がけでテストしてるんだ!
そのことだけは、理解しておいてほしい」

それからでした。私も単なるクルマ好きではなく、
「クルマを正しく評価できる人間になりたい」と思い、
成瀬さんのチームに交じってトレーニングをはじめました。
ヤマハさんのテストコースでは、スープラで、数えきれないぐらい走りました。

私の技量が向上してきた2003年、
成瀬さんは「クルマをもっと知りたいなら、ニュルブルクリンク24時間レースに参戦してみないか?」と
誘ってくれました。

レース?しかもニュルで?

成瀬さんの真意を、心の底から理解できたのは、
2007年にアルテッツァで初挑戦し、完走を果たした後でした。

成瀬さんが私たちに教えたかったことはレースの順位や戦い方ではありませんでした。
クルマ文化をつくっていくこと。そのためには「味のあるクルマ、クルマの味づくり」が大切だということ。
そして、それを実現するための人材育成をしっかりやるということでした。

だから、どこにもお願いせずに、トヨタの社員だけでGAZOO Racingを立ち上げ、
成瀬さんの力を借りて、ひとつずつ、手づくりで準備していきました。

世界一過酷なサーキットと言われるニュルで、ライバル達と一緒になって24時間走るということは、
テストコースを3年間走り込むことよりもはるかに多くの課題を私たちに突きつけてきました。

私たちは、その課題を何とか乗り越えようと、いつも全員で必死に取り組みました。
成瀬さんは「クルマは道がつくる」ということも教えてくれました。

どんな道でもドライバーが気持ちよく走れるクルマをつくらないといけない。
ニュルが「クルマを鍛える、ヒトを育てる」のにうってつけの場所だということを
世界中の自動車関係者から「ニュル・マイスター」と呼ばれる成瀬さんは分かっていたのです。

レクサスLFAはトヨタにとって「式年遷宮」だと思います。
伊勢神宮は、20年に一度、お社を引越しすることで技術や技能の伝承を行っています。
1967年、トヨタは2000GTなど多くのスポーツモデルを送り出しましたが、
その時の若手メカニックの一人が成瀬さんでした。

それから40年、成瀬さんは「棟梁」となって、若いメンバーに一所懸命、
技術と技能の伝承を現地現物で行ってくれました。
トヨタの社内全体の人材育成が遅れてきたと反省する中、成瀬さんは、先頭に立って、全身全霊をこめて、
後輩の育成に努めてこられました。

「厳しいけど、温かい」「怒ると怖いけど、優しさを忘れない」。
そんな成瀬さんの人柄は、東京オートサロンなどでのイベントでも垣間見ました。
熱いトークをする傍らで、来場されたファンやお子さんたちには、気さくに話しかけたり、
写真やサインにも「僕なんかでいいの?」と言いながら、笑顔で応えていました。

でも私は知っています。
成瀬さんの、クルマに乗っている時の顔、後輩を教えている時の顔、監督の時の顔、
いちばん輝いているのは、やはり「クルマに乗っている時の顔」だということを。

成瀬さんの最後のLFA評価を後日、伺いました。

「今まで乗っていたLFAで、いちばんいいバランスだ」
「求めていたのはこれだ!という感じ。トヨタでもできるじゃないか!」
「これならどこの道でも、どんなクルマにも勝てる。長い間やってきた甲斐があったなぁ」
「これまでやってきたことをクルマは絶対に裏切らないぞ」

決してクルマに合格点を出さない成瀬さんが、満面の笑みで、最後に合格点をくれたのでしょうか?
成瀬さんからお褒めの言葉をいただいたことは開発チームにとって最高の勲章でした。

成瀬さんとの走り。
成瀬さんとの語らい。
「これからの世代にクルマの楽しさを伝えたい」という情熱は、
私の行動の、私の言動の、これから変わらぬ糧となっています。

成瀬さんの「いいクルマづくりに終わりはない」という言葉。
成瀬さんの思いを、成瀬さんがつけてくれた道筋を、
残された私たちが、しっかりと引き継ぎ、確かなものにしていきます。もっといいクルマをつくります。

成瀬さん、長い間、本当にありがとうございました。
どうぞ安らかにお眠りください。そして、いつまでも私たちを天国から見守っていてください。

平成22年6月30日
トヨタ自動車 取締役社長
そして、成瀬さんのチームの“いち”テストドライバー
豊田 章男

2007年 豊田が初めてニュルブルクリンク24時間耐久レースに参戦したとき、自身のレースマシン(アルテッツァ)の前で、共に走った成瀬さんと撮った記念の写真